おいそれと愛や人生について語ることが出来ないように、文学について何か言葉を発すれば発するほど、むしろ遠ざかってしまうような気がする。
しかし少なくとも言えるのは、ただ読み終わった後に読者を優美な気分にさせるだけの作品は文学ではないということだ。
文学は読んでいて心をズタズタに引っ掻き回されているような、そんな気持ちにさせるものでなければいけない。
そのような意味において、うめざわしゅんの漫画はとてつもなく文学だ。
ドギツい下ネタを多用する作風が人を選ぶせいか、全くと言っていいほど賞に恵まれていないが、うめざわしゅんは現代で最も重要な漫画家の一人だと思う。
そんな彼の代表作が『パンティストッキングのような空の下』だ。
2001年〜2015年にかけての読み切り9編が収録されていて、その全てが誤魔化しや欺瞞一切無しのスリリングな魅力に溢れている。
キレイゴトが嫌いな三上と知的障害のあるひろし、高校生二人の友情を描いた表題作『パンティストッキングのような空の下』。
人が都市ではなく自然に住むようになった時代に、一人の老人が伝説上の生き物ジョシコーセを追い求めて都市に残り続ける『未来世紀シブーヤ』。
これらも大変面白いのだが、特に気に入ったのは最後に収録されている『唯一者たち』だ。
短編漫画の中ではマイベストと言っていいかもしれない。
主人公の平田洋一は幼児性愛者で、日々希死念慮に悩まされ精神科に通院している。
平田を自死へと駆り立てているのは、強烈な自己否定感と10年前幼児に性的暴行未遂を働いてしまったことによる罪悪感だ。
死ぬことしか考えていない平田だが、そこに高校の同級生・津雲ルイが現れる。
「俺がどんな奴か分かってて…何を話したい? ペドファイルの研究発表でもすんのか?」と疑う平田だったが、二人は会話を交わすようになる。
だが、津雲ルイは平田に対して積極的に介入したりはしない。ただ話を聞くだけだ。
「本当に社会に属せないのは俺だけだよ。だから俺はもうすぐ死ぬ」
「だからよ。お前もこんな風に俺につき合ってても意味ねえからな」
「そおねえ、確かに。イヌネコでも三日飼ったら情が移って死んだらつらいもんねー。考えとくわ」
ルイは平田の自殺を止める気はないと言う。
自殺志願者が生きていることで感じる辛さと、自殺した後に遺された者が感じる辛さの大小を比較することは出来ない。
だから、自殺の〝当事者〟である平田は自分の意思を尊重していい。
良識のある人々からすれば眉をひそめるような意見かもしれないが、非常に納得した。
ルイとの対話によって少し回復の兆しを見せた平田だったが、強制わいせつ事件の容疑者として警察に任意同行を受けたことによって再び症状が悪化してしまう。
駆けつけたルイに平田は正直に自分の心情を吐露する。
「2ちゃんでずっとラクな死に方を探してて…
俺は…死ぬのは怖くない…でも…どんな自殺でも…
少しの痛みや直前の恐怖を考えるだけで…できっ…できないんだ……!
拳銃が…拳銃が手に入れば…クソ! 俺は…
俺はここからいなくなるのは怖くない…いや怖い!
とんでもなく怖い!」
ルイは、自分のしたことと向き合うために、10年前に傷つけた女の子に謝罪しに行くことを提案する。
「今になって謝りに行くのは自分のエゴでしかなく、相手をさらに傷つけることになる」と逡巡する平田だが、結局実行することを決心する。
結果「絶対に許さない」と断罪され、自分の犯してしまった罪の重さに打ちひしがれる平田。
「苦しい…苦しい…でもコレは…
あの子の苦しみとは関係なくて…
自分がそんなことをした人間で…この先もそうだってことが…苦しい
こうやって結局自分の苦しみしか苦しめないことが苦しい…
ずっと…ずっと…
なんで俺はこんななのか…なんで俺だけが…なんで…
なんで俺は…生まれてきたのか…」
慟哭する平田に、ルイは「私は生きてるのがすごく楽しい」と言う。
ルイは平田とは対極的な社会地位にいるキャラクターだ。
とても美人に描かれているし、収入も安定していて、優しい彼氏もいる。
「冬は寒いけどたくさん服を選んで着れるし、
近くにできたケーキ屋は大当たりだし
もうすぐハンターハンター連載再開するし…
川上さんは超優しいし!」
「とにかく! 私の人生超すばらしいよ!」
それでも、ルイはこう続けるのだ。
みんな自分だけが自分。
そこからは、いくら自分探しゲームに奔走しようとも、SNSで逐次自分の情報を他人と共有していても、決して逃れることはできない。
言語を介してコミュニケーションが成り立っているだけで、誰も自分の感情を正しく他者に理解させることなどできない。
自分はマイノリティかもしれないが、本当は誰しもマイノリティなのだ。
そう認識することは生きていく上で救いになる。
とはいえ、平田がそれから生きたのかどうかは読者の解釈に委ねられる。
ルイは恋人とのデートに出掛け、平田は一人街に残される。そこから先は描かれない。
安易なハッピーエンドを否定する素晴らしい終わり方だと思う。
物語の幕は閉じたとしても、登場人物たちはそれからも悩み、生き続けるからだ。
うめざわしゅんは寡作な作家だ。
『一匹と九十九匹と』を読んだ時は本当に行き着く所まで行ってしまった気がして、「うめざわしゅんは自殺するんじゃないだろうか?」と心配になったけれど、最近月刊アフタヌーンで連載が始まったから安心した。
『パンティストッキングのような空の下で』の後書きで、うめざわしゅんは評論家・福田恆存の文章を引用してみせる。
「一俵の米を脱穀するとね、必ず十粒ばかりは脱穀されない穀粒が出るんだよ。僕の読者はね、その極く少数の脱穀されない穀粒なんだ。(中略)
物書きは読者を裏切つちやいけないんだ」
うめざわしゅんにとっての「脱穀されない穀粒」であれたことが嬉しい。