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雑誌ジャーナリズムの産みの親はなぜ自らを「俗物」と称したか──森功『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』感想

 

鬼才 伝説の編集人 齋藤十一 (幻冬舎単行本)

鬼才 伝説の編集人 齋藤十一 (幻冬舎単行本)

  • 作者:森功
  • 発売日: 2021/01/13
  • メディア: Kindle
 

齋藤十一は文芸誌『新潮』の編集長を務め、『芸術新潮』と『週間新潮』を創刊し、その慧眼から「新潮社の天皇」と畏れられた出版界における歴史的人物だ。

そんな大人物を書いた伝記が面白くないハズがない。

数多くの新人作家を発掘した編集者でもあり、五味康祐柴田錬三郎山崎豊子瀬戸内寂聴などを育てたというから驚きだ。

小林秀雄太宰治とも親交があったようで、編集者の視点から見た戦後文学史としても面白く読めた。

珠玉だと思ったエピソードをいくつか紹介する。

 

受験の失敗

齋藤十一が文学に興味を持つようになったのは、大学時代に仲良くなった同級生・白井重誠に感化されたからだという。齋藤十一と白井重誠は早大理工学部の同級生だった。

齋藤は当時名門高校だった海軍兵学校や旧制一高や松本高校に落ちて早稲田第一高等学院に入学し、早大にそのまま進学したらしい。

つまり中学時代の受験の失敗がなければ、編集者としての齋藤十一は存在しなかった訳だ(もっとも早稲田だって自分からしたら村上春樹を輩出した名門で、今でも憧れがあるくらいだけど)。

全くの偶然でそれを期待して購入したのではないのだが、齋藤十一は自分と中学の母校が同じであるようで、昔の母校の様子を知ることができたのは嬉しい誤算だった。

「○○中学の教室では、成績の順に席が決まる。劣等生が教壇の前に座らされ、優秀な生徒ほど席が後ろになる。齋藤はちょうど中間ぐらいの席、つまり成績も中くらいだった」と記述があって、「あっ。自分が教壇の前に座らされることが多かったのはこのためだったのか」と一人合点がいった。

齋藤は受験に失敗した理由をのちにこう語っている。

「前の日、学校に下見に行ったら、在校生に捕まってしまってね、話をしているうちに仲良くなって、いつの間にか芸者の置屋に連れていかれたんだ。生まれて初めての芸者だからボーッとしちゃって、試験場でもボーッとしたままだったんだよ」

 受験というのは一つの人生の分かれ目であるはずなのに、中学生にしてこの胆力はすごい。

四十年後、自民党政治家・中曽根康弘から新潮社が名誉毀損で訴えられた時さえびくともしなかったというエピソードの萌芽がここからは感じられる。

 

倉庫番から編集長へ

齋藤十一は当時の新興宗教ひとのみち教団』(現在のPL教団)を通じて新潮社の創業者である佐藤義亮と出会い、新潮社に入社することになる。

だから外部からの圧力に屈しない週刊「新潮」の唯一のタブーとして、創業者と重役がかつて帰依していた『ひとのみち教団』が改組してできたPL教団に触れてはいけない、というのが編集部内でまことしやかに囁かれていたらしい。

しかし現実には、PL学園出身の野球選手・桑田真澄清原和博のスキャンダル記事が週刊「新潮」の誌面を飾っているので、さしたる影響はなかったのだろう。

将来「新潮社の天皇」として畏怖されることになる齋藤十一の最初の仕事は、意外にも倉庫の管理だったらしい。それも7年間続けていたというのだから驚きだ。

そこで世界文学全集やトルストイドストエフスキーモーパッサン、ポーなど新潮社が得意としている翻訳文学を次々と読破していった。おそらく彼の文学的教養はここで培われたと見て間違いないようだ。

そして齋藤が倉庫番をしている間に第二次世界大戦が開戦する。

国家総動員法が発令され、新潮社の社員たちの多くが戦場に送り込まれていった。

齋藤は持病の肺浸潤のおかげで陸軍の徴兵試験で丙種合格(つまり最低ランクだ)となり、前線に出征することを免れる。

大戦によって新潮社の実働人数は以前の五分の一に減り、齋藤は編集を担当することになる。

そしてさらに、終戦GHQによる戦犯出版人の粛清の嵐が新潮社を襲った。

この粛清で、「芥川賞」「直木賞」を創設した文藝春秋社長の菊池寛までもが公職追放の憂き目に遭っている。

こうして新潮社は経営陣を一新する必要に迫られ、齋藤は三十一歳の若さで文芸誌「新潮」の編集長に大抜擢される。

編集長に就任するにあたり齋藤は『批評の神様』小林秀雄に師事を仰いだ。小林秀雄は国文学をやる人間にとって本当に神様のような存在で、彼に指導してもらうということは「マイク・タイソンにボクシングを教えてもらう」とか「ジョン・レノンにギターを習う」ということに等しい。

寡黙な人物である小林秀雄は訪ねてきた齋藤十一に一言、「トルストイを読め」と言った。

「そのほかに、どのようにすればよいでしょうか」

そう問いかけると、「そのほかには何も読む必要はないっ。トルストイだけを読めばいいんだよ」と小林秀雄は答えたらしい。

小林秀雄全作品」第十九集にもこう書いてあるようだ。

〈あんまり本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え。文学に於いて、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、文学入門書というようなものを信じてはいけない。途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて充分に驚くことだけが大事である〉

トルストイを読もうと思う。

 

坂口安吾太宰治

「新潮」の編集長に就任した齋藤は、翌年の四月、まだまだ当時は世間に知られていなかった坂口安吾を連載陣に起用する。

こうして坂口安吾の『堕落論』や『白痴』は書かれ、「新潮」は飛躍的に部数を伸ばす。

また同時期に同じく無名作家であった太宰治も発掘しているのだからすごい。

太宰は一九四七年の新潮七月号から連載を始めた「斜陽」でブレイクし、五味康祐と大相撲の元横綱男女ノ川登三とともに「三鷹の三奇人」と呼ばれるようになる。

佐藤義亮の孫である佐藤陽一郎は、当時編集責任者だった父の哲夫から聞いたというエピソードが面白かったので引用する。

「斜陽の執筆を依頼した頃、編集責任者としての僕の親父の佐藤哲夫がまだ新潮社に残っていました。入社したばかりの野平さん(太宰の担当編集者。太宰の検死に立ち会ったことで有名)が太宰を新潮社に連れて来て、父と齋藤さんが出迎えたらしい。それで太宰は歓待をされた気分になって、すごく喜んだそうです。太宰だけではないでしょうけど、あの頃の若い作家はカストリ作家と呼ばれ、ろくに原稿も書かずに新宿あたりで酒びたりの暮らしを繰り返していました。で、その日も、帰りに野平さんと太宰が新宿へ飲みに行ったそうです」

陽太郎はこうも言った。

「太宰が死んだ日、僕の親父が『俺も現場に行こうか』と野平さんに言ったら、『そこまでやる必要はない』と言われたそうです。父は酒を飲むと、『あのときは、俺も行ってみたかったんだけどなあ』とよく話していました」

 息子に語ったことの伝聞だからだろうか、やけに率直な物言いなので不謹慎ながらも笑ってしまう。

志賀直哉と激しくぶつかっていた太宰は、遺稿となった評論「如是我聞」でこう書いている。

〈他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す〉

太宰みたいなバトル気質の作家が今の日本文学界に一人でもいれば、もっとシーンが盛り上がるような気がするんだけどどうだろうか。

 

雑誌ジャーナリズムの産みの親はなぜ自らを「俗物」と称したか

その後齋藤十一は、出版界初の週刊誌である週刊「新潮」の創刊に乗り出し、成功する。

齋藤の素晴らしいのは、とんでもない読書量がありながら自らを「俗物」と言い切った所にある。

齋藤は週刊「新潮」の記事作りの根底に、「女、カネ、権力」という人間の欲望を描き出すという目標を置いた。

姉妹雑誌「新潮45」をリニューアル創刊する際の編集会議で言った発言が、彼特有の哲学を示唆していて含蓄深い。

「僕が考えているのはだね、要するに、世界は、学問とか芸術とか(いうもの)があるし、あったわけだね」

「そういうものをね、ほんとはだよ、余分に摂取したい自分(がいる)、したいんだけど、いままではどっちかというと、われわれにとって、素人だから、手に負えなかったんだよ。そのために、そういうものにうまい味をつけて、誰にでも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ」

「俺自身、カントの『純粋理性批判』なんて読めないし、わからないしな。

だけどよ、あれだけの学問というものがあって、人間にとって何かプラスがなくちゃいけない。そうだろ。

じゃ一体それは、それを読んだ奴はね、ひとつ、どういう強みがあるのか。

そうなると読もうかという気になるわけだ」

「『カント〝純粋理性批判〟』についてと言われても、読めないよな。そうだろ。

すべての芸術、学問、いろんな旅行記、みんな、いままでつくってきたところの財産を、われわれが味付けして現代人に提供してやろう、ということだ。

根本は」

新潮45」は二〇十八年に愚の骨頂といえる杉田水脈『「LGBT」支援の度が過ぎる』の記事を載せたことで炎上し、廃刊となったが、教養に裏打ちされた齋藤のこの理念が今もなお根付いていれば、こんなことにはならなかったのではないだろうか。

新潮社社員の石井は齋藤の考えをこう分析している。

「齋藤さんは読者として自分自身の俗物性な部分を肯定しながら、ノブレスなものへの憧れを抱いてきた。書きものは教養に裏打ちされた俗物根性を満たさなければならない。そういうものにしなきゃダメだと考えてきたのでしょう。人間はデモーニッシュな生き物であり、人の頭を割ってなかを見ると、ろくでもない存在であることがわかる。けれども、そこに光る何かを見出す。それが下品にならない書き物であり、そこに齋藤さんの一種の価値観があるのではないだろうか」 

齋藤は亡くなる際、妻の美和に「僕の墓は漬物石にしてくれ」と言い残し、 美和はその遺言を守って実際に台所で使っていた漬物石をそのまま墓碑にしたという。

そのことを筆者は〈本人が自任してきた俗物を意味しているのではないか〉と考察していて、自分もその通りで、齋藤十一の透徹された理念がそこには現れているのだと思う。

最近の〈文春砲〉が代表しているように、雑誌ジャーナリズムには下品でうんざりだという印象しか持っていなかったが、それがこういった教養主義と俗物性の両方を併せ持つ人物によって創始された、という事実は大変興味深く読むことができた。