ものぐさ読書宣教会

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天使が跋扈する世界、起こり得るはずのない連続殺人──斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』

 

楽園とは探偵の不在なり

楽園とは探偵の不在なり

 

「昔、こんな小説を読んだんですよ。小説というより掌編ですかね。あるところに写真に写らない体質の男がいた。男は誰とも写真を撮らないことを決めていたが、親しくなった連れ合いはそれをよしとせず、彼の忠告を聞かずにたくさんの写真を撮った。連れ合いは、男が本当は写真に写りたがっていることに気づいていたからだ。しかし、男と離れ離れになった後、連れ合いは男の忠告の本当の意味に気づくんです」

「本当の意味?」

「男の忠告とは連れ合いの為のものだったってことにです。連れ合いは写真を撮る度に男の不在を感じるようになった。写真に写らないからこそ男の不在を見せつけられる羽目になり、そこで懊悩することになった。不在が一番場所を取る。多分、この世界における神の存在もそういうものだ。あることを知っていながらけして姿を現さないことこそ、最も偏在することが出来るんじゃないでしょうか」 

 

特殊設定ミステリは大好物だ。

主人公が同じ1日を繰り返す西澤保彦『七回死んだ男』、死んだ人間がゾンビとなって一定期間生き長らえる山口雅也『生ける屍の死』──そうした特殊設定ミステリの系譜として本書を手に取った。

『楽園とは探偵の不在なり』における特殊ルールは、主に一つ。

二人以上の殺人を行った人間は、天使によって地獄に引き摺り込まれる。

従って地獄の存在が抑止力となり、この世界で連続殺人は起こり得ないはずだった。

しかし、探偵の青岸焦は天使が集まる楽園・常世島にて連続殺人事件に遭遇する。

二人殺せば地獄に堕ちるのが絶対の掟ならば、なぜ犯人は二人より多くを殺せるのか。

その犯行方法とは何か。そして犯人は誰か。

こうした推理要素満載の本格ミステリとして仕上がっていながらも、しかし、それだけの作品に留まっていないのが本書を推す理由だ。

 

個性的なキャラクターとガジェット

天使狂い、天国研究家、武器商人、天才料理人、そして探偵──物語の舞台である常世島に集まる面々は、怪しげで外連味たっぷりだ。

青岸焦率いる探偵事務所のメンバーもキャラが濃い。

そんな『楽園とは〜』に登場する魅力あるキャラクターの中でも特に、推理以外は不得手な探偵・青岸焦と正義の味方を目指す理想家の探偵助手・赤城昴の関係性が最高すぎた。

「……お前がここに来て、ちょっとは世界がマシになってるかもな」

それは青岸なりの最大限の感謝の言葉だった。

その時に赤城を受け入れていなければ、ここまで事務所は大きくならなかった。助けられる人や解決出来ることが増えたのは、赤城が来たからだ。

赤城なら、この言葉を聞いていつものように無邪気に喜ぶだろうと思っていた。しかし、そうはならなかった。

赤城は呆けた顔をしたまま、静かに涙を流し始めた。それがあまりにも予想外だったので、青岸まで呆然としてしまった。大の大人が二人して見つめ合っているのは異様で、戻ってきた石神井がげらげらと笑ったのを覚えている。

そうして、青岸探偵事務所は世界の片隅で正義を目指していた。

赤城昴は大人向けの小説にしては珍しいくらいの圧倒的な善性に満ちたキャラクターで、彼の掲げる子供じみた青臭い正義と、天使降臨後もなお根絶されない、巻き込み型のテロやリンチ殺人という人間の悪意──それら二つのコントラストが物語に深みを与えている。

作中に天使食や言葉を喋る天使、殺傷力が高い爆弾『フェンネル』などの人間の悪意を煮詰めたようなガジェットが頻出することを考えれば、そのコントラストは闇の方が強いのかもしれない。

 

報われない自己犠牲

気になったのが、本作に〝報われない自己犠牲〟というモチーフが繰り返し描かれることだ。

自分の命を差し出して救った対象が、結局救われずに死ぬ。

ある章のラストを読んで、斜線堂有紀はここまで残酷になれる作家だったのか、と度肝を抜かれてしまった。

一般的にフィクションにおいて自己犠牲は肯定的に書かれていることが多いし、自分も『魔法少女まどか☆マギカ』や『輪るピンクドラム』など「少年少女が自己犠牲で世界を救う」系のアニメ作品が好きだ。

自己犠牲、というか自己の利益を顧みない利他行為は、比べる物がないほど尊いと思う。

しかし、この『楽園とは探偵の不在なり』では、自己犠牲はことごとく実を結ばない。

人間一人の献身など意に介さない神の無情さを強調したかったのか。

それとも、自己犠牲の精神は容易に全体主義と結託し、神風特攻隊のような悲劇を生み出し得るということが言いたいのだろうか。(おそらく後者ではないと思う)

「想像力のない人びとを救うためには、いつの時代にもキリストのような人間が死ななければならないのでしょうか?」

──バーナード・ショー『聖女ジョーン』

もはや自己犠牲では何も救えないのだとしても、それでも自己犠牲に意味はあるだろうか。

斜線堂有紀の作品に再び〝報われない自己犠牲〟のモチーフが描かれるのなら、その時は注目してみたい。