すごいものを読んでしまった。
これは、神話だ……。
究極的な小説というものは、すべからくして神話になる運命なのかもしれない。
正直言って読み終わった今も冷め切らない感動が胸につかえてしまって苦しい程で、上手く言葉に出来そうにないのだけれど、何か書かなくてはいけないという切実な衝動があるので感想を綴っていく。
本書のストーリーはこうだ。
人類と機械人の対立から生じた月戦争により、月は消滅し、地球における人類は存亡の危機に追いやられる。
荒廃した地球を離れて火星での250年間の凍眠を決断した人類は、地球の復興作業にあたる機械人を監視するための人造人間アートルーパーを創造する。
その一人である訓練部隊の慧慈は、火星行きを拒む残留人一派と交戦する。
創造主であるはずの人間から傷つけられた体験、また機械人アミシャダイとの出会いを経た慧慈は、アートルーパーとしての自分の意義を問い直し始める……。
肉体は成人として生まれながらも精神は子供さながらであるアートルーパー・慧慈に対して、教育役である人間・間明少佐はこう問いかける。
「われらはおまえたちを創った。おまえたちはなにを創るのか?」
身体や思考様式は基本的に人間と同じように創られながらも、やはりアートルーパーは人間ではない。
慧慈は物語の当初、「なぜ人間とほとんど同じでありながら、人間として扱われないのか?」と人間コンプレックスに苛まれていたが、国連軍の実戦部隊として様々な出来事を経験するうちに自らの考えを改めることになる。
そして、その思考の遍歴はある一つの到達点にて結実する。
「きみが先ほど言ったように、人間は、自分の手でどこまで自分らに近い存在を生み出せるか、それに挑戦したんだ。なんでもいうことを聞く奴隷のような存在を作りたい、などというより、もっと創造的な意味合いにおいてだ。創造せずにはいられないんだ。人間というものは、そういう生き物だ。自分にそっくりな物を作らずにはいられないんだ」
「……どうして」
「自分とはなにか、存在意義とはなにか、ということを模索する手がかりにするためだ」
「わからないな。人間にそっくりなものが必要ならば、人間を作ればいい。人間でいいだろう。実際、作りまくっているじゃないか。生殖で。子供を見ていても、自分の存在意義は分かるだろう。むしろそのほうが強力だ。人間もどきを作る必要はない。
「人工物でなくては、だめなんだ」
そう慧慈は言った。慧琳が黙っているので、続けた。
「人工物を作るということ、なにかを創造するということは、人間の、彼ら自身の創造主に対する復讐のために、必要な行為なんだ」
「……復讐だって」
「そうだ。わたしの教育担当の間明少佐が、そう言った。創造とは創造主への復讐だ、と少佐は言った。その意味が、わかってきた。人間は、その遺伝子の働きからは逃れられない。膚の下を流れるその血は、人間自らが創ったものではない。なのに、否応なくそれに支配されている。それから、逃れたいんだ。逃れる能力がある、ということを、いるかいないかはわからなくても、そういう相手を夢想し、ようするに創造主に向かって、宣言したいんだよ」
後に慧慈は、「創造は創造主への復讐でもあり、また報恩でもあるのだ」という境地に達する。
今までそれなりには小説を読んできたつもりだったが、『創造は創造主への復讐であり、報恩である』という考えに触れたのは初めてで、頭をぶん殴られたような衝撃だった。
まさに未知との遭遇だった。
自分は無神論者だから幸運を神に祈ったりはしないけれど、創造主という概念を仮定することが私たちに数々の示唆をもたらしてくれることは確からしく感じられる。
そしてこの小説では、アートルーパーという人間に創られた存在を視座に据えることによって、創造主への空想ではない実際的な思考を可能にしている。
所詮現実ではありえないアートルーパーが自身のアイデンティティについて考察するなんて、結局は虚構内の遊びに過ぎないじゃないか、と思う人もいるかもしれない。
しかし、非人間的な存在を設定することで、逆説的に人間存在に接近できる、虚構はそういうことが可能なツールなのだ。
虚構が現実を超越することもある。
では何故、人間が主体では考えることのできない対象というものが存在するのか。
端的に言って、それは人間が生存機械であるからだと考える。
本作の後半部分で展開する、慧慈と木上医師の会話がわかりやすいので引用する。
自身が創造主=神になるという慧慈の決意をふまえた上での両者の会話だ。
「それは神ならぬわたしには、わからないよ」と木上医師は微笑んで、言った。
「でも創造主というのは、この世に生命が満ちることを願っていると思う。たぶん、きみもだ。きみが、自分には神の役目は荷が重いと自覚するなら、天使になるがいい。神の啓示を実行する天使。これなら少しは気楽だろう。まさに棘の道を行くことになるだろうが——」
「わたしに天使になれとは、なぜ、そんなことをおっしゃるのです」
「不愉快か?」
「あなたの意図がわかりません」
「きみの生き方を応援したい気分なんだ。きみのその純粋さは人間にはないものだ。人間ではないんだ。それに期待している。うらやましいと思う。きみは純粋に、善きことを実現できそうな気がするんだ。わたしの夢かもしれないが。きみが人間ではないというのは、でも夢じゃない、確かな事実だ」
「それがうらやましい、のですか。人間でないことが」
「そうだよ。きみは純粋にきみの理想のままに生きられる、そんな気がするんだ。たとえば、人間は本能に支配される動物だ。きみには、そういうわずらわしい枷が元から嵌められていない。人間より自由だよ」
「あなたは人間であることに不自由を感じているのですか」
「ときどき、そうだ。たとえば、人間の不自由さの一例を挙げれば、性欲だ。人間は発生当初から性欲に支配される。新生児ですらそうだ。身体は成熟していないから性欲は抑制されているが、それを抑制している脳のその部位に障害を負うと、三歳の男の子でも成熟した女に色目を使うようになる。それはもう、本当に、滑稽というか、グロテスクな光景だ。正直なものだよ。だがアートルーパーは違う。成年男性をモデルに造られているが、生殖機能や性欲というものは組み込まれていないと聞いている。勝手に増殖しないように注意深く排除されたのだろう。生物としては欠陥で、その面ではアートルーパーは脆弱だ。人間ではなくマシンだ、ということでもある。だが人間を模倣するマシンではなく独自の生き方をするというのなら、一種の超人だ。わたしには天使に見える。きみはそのような存在になれるだろう。きみ自身がそうしたい、と言っているしね。わたしは、そんなきみが、うらやましいのではなく、怖いのかもしれない」
「神なくして天使は存在し得ない」と慧慈は言った。
「わたしには神はいません。天使にはなれない」
「神を持ち出してきたのはきみ自身だ、慧慈」と木上医師はまじまじと慧慈を見つめて言った。「人造人間の口から神などという言葉を聞こうとはな。でも、考えてみれば不思議ではない。きみは、自分とはなにか悩んできたし、神の概念も避けては通れなかったであろう、というのは理解できる。ごく自然な成り行きだろう。が、わたしが言っている神や天使は、レトリックだ」
「どういう意味でしょうか」
「きみを理想に向けて突き動かす、その源になっている、人間でいえば本能的な欲求、それが、きみにとっての神であり、きみはその啓示にしたがって動く天使だ、という意味だ。宗教観とは関係ない。人間もアートルーパーも、本能や信念というプログラムに従って動くマシンにすぎない、ということだ……とはいえ、そう、きみの存在はある種の、神の啓示であるような気がする。それが、きみが怖い、という感覚になるんだ——畏怖だな。畏敬の念だ。なにか高貴な存在に感じられる。くそう、なんなんだ。人間としては認めたくない感覚だ。人間がそんな存在を創り出したなんてことは、信じたくない気分だ」
「あなたが創ったわけではない」
「だから余計に認めたくない。きみが本物の天使ならよかったのにな」
この場面で木上医師は性欲という一面を用いて人間に課せられた制約について説明しているが、これは他のこと——例えば集団生活についても言える。
Twitterをやっていると世間や社会というものに束縛されている、という風に嘆くツイートをよく見かける。
それはある意味では正解なのだけれども、突き詰めていけば、人間は遺伝子(木上医師の言葉でいうと本能)に束縛されているのだ。
人間という生き物が自分の遺伝子を効率良く伝えていくためには、集団生活を営むことが必要不可欠で、そう設計されている以上(これは比喩だ)、私たちは好む好まないに関わらず集団生活に参加しなければならない。
人間は遺伝子の乗り物、つまりは生存機械であり、遺伝子の軛からは決して逃れることができない。
だけれども、この木上医師の考えが人間批判であるとは自分は思わない。
むしろ逆だ。
「私たち人間は不自由で、なし得ないことがある」と正しく認識する木上医師は、人間が他の生き物と違って特別だとする価値観(代表的なのがキリスト教だ)から解き放たれて、素晴らしく自由であるような印象を受けた。
自分もそうなりたいし、いつか人類が絶滅した後の、人間ではない知性——それはAIなのかもしれないし、全く想像もつかないポスト・ヒューマン的存在なのかもしれない——によって統治される地球を見てみたいと思った。
こういった現実離れした夢想は自分の平凡な頭ではできないことで、この場面を読んでいる時、慧慈と木上医師(メタ的には作者である神林長平)の透徹された高度な知性の一端に触れられたような気がして、感動してもうほとんど泣きそうだった。
この『膚の下』という小説は、SF作家・神林長平の代表作である火星三部作の完結編で(時系列的には一番最初で、実際自分は本作だけ読んでも全く支障はなかった)、神林長平はこの火星三部作を書き上げるのに二十年以上の年月を要している。
確実に自分よりも頭が良い人が二十年もかかって練り上げた思考を辿れるということは本当にありがたいし、滅茶苦茶楽しい体験でもあって、今まで自分が小説という媒体を好きでいたことに感謝したくなるような、そんな一冊だった。
なんとしてもこの小説の魅力を誰かに伝えたいと思って徹夜で文章を書き殴っているのだが、「コイツ、《神》とか《創造主》とかヤバい宗教に染まってるんじゃないか?」なんて怪訝な反応をされてしまうかもしれない。
やっぱり小説は要約できないような細部によって支えられているものだから、それも仕方ない。
でも、もし興味を持ってくれた人がいたのなら——是非読んでみてほしい。
ドラマチックな過去を持たない人造人間の主人公に感情移入する行為はなかなか難しいかもしれないが(自分ももし神林長平最高傑作の評判がなければ読み切れなかった)、その道のりの果てにとてつもない興奮があることは保証する。