私の脳髄を、麻雀という名の妖怪が徘徊している——。
そんな妄執に取り憑かれるようになったのは去年の秋頃からだ。
その日、私は普段通り新宿の雀荘で打っていた。東風戦、ウマ10-50・祝儀1000でピンレート——所謂、歌舞伎町ルールを採用している雀荘。もし箱になれば1ゲームで1万が飛ぶ。10ゲームくらいこなすから大負けすれば10万だ。私は貧乏学生だから、買っても負けても楽しければいいという風にはならない。心臓がギリギリ軋むような真剣勝負である。その代わり、勝てば天運をモノにした充実感が味わえる。堕落した空虚な日々の暗澹に光が差す束の間の一瞬。その瞬間の為に麻雀を知ってからの数年間、私は牌を握り続けているのだ。
その日は既に5万ほど負け越していたので、私は焦っていた。そして最後の東風オーラス、こんな手が仕上がった。
西がドラで、チートイドラ4。アガればハネ満確定で、3着から一気にトップに踊り上がる。たった今ツモってきた東が河に1枚切れなので、如何にも出やすそうだ。
いや、出るだろう。まだ5巡目だ、誰も私がテンパイだとは思っていまい。誰かが対子で抱えていない限りきっと出るに違いない。私はつい漏れそうになった笑いを噛み殺し、負けが込んで苛立つ麻雀中毒者の表情を装う。そして、8萬を切ってダマに構えた。
すると、何巡かして3枚目の西をツモってきた。ドラを3枚ツモってくるなんて、麻雀の女神(彼女は女性の中でも随一の気まぐれ屋だ)が私に微笑みかけている——そんな風にも錯覚してしまう。しかし、チートイテンパイの今、この牌は不要だ。少し怖いのが、対面の親の捨て牌で、萬子と索子の中張牌がバラバラと切られている。筒子のホンイツの可能性が濃厚で、この西はやや危ない。そう思ったものの、興奮気味の私が見逃していただけで、ほんの一寸前に下家が西を切っていた。つまりこの西は4枚目の西であり、国士無双以外でのアガリは有り得ない。私は胸を撫で下ろし、西を切った。
——その時だったのだ。私が初めて麻雀妖怪に遭遇したのは。
「——ロン。ホンイツドラ2。8000」
下家が静かに発声した。牌が倒される。
そこには、5枚目の西が存在した。
どう云う訳だ? 訳が、分からない。西は単騎待ちすらあり得ない筈なのに。
急に喉の猛烈な渇きを意識した。現実感が薄らぎ、目の前の景色が色彩を失っていく。世界がセピア色に染まる。
そして錯乱する私は、麻雀卓の少し上の宙に浮かぶ——振袖姿の童女を視た。
振袖は背景のセピア色とは異なる鮮烈な紅緋色で。
童女自身は黒い御河童頭。
日本人形めいた真っ白の相貌をしている。
彼女の朱に塗られた唇に視線を移すと。
——けらけら、けらけら。
彼女は狼狽する私を指差して、嗤っていた。
「どうしました」
下家に肩を揺すられ、私は我に帰った。
同じ店の常連である彼は、私に点棒を催促すると、私の手牌を覗いて気安く話しかけきた。
「チートイ東待ちですか。なんでドラの西の方を切ったんです?」
そうなのだ。チートイ東待ち。でも違う。
目の前にあった私の手牌は——
西が北に、すり替えられていた。
それから童女は、頻繁に私に会いに来るようになった。彼女は顕れると私の牌をすり替えていく。いや、私の中の現実をすり替えていく。現実と虚構を、置き換えてしまう。
最近では、私の夢の中にさえ彼女は顕れる。麻雀卓上に胡座をかき、私の点棒をばりばりと貪り喰う。ぺっ、と食べ滓を私に向けて吐き出すと、それは他家の当たり牌なのだ。
こんな夢を見るなんて、私の脳髄は壊れ始めているのだろう。
それでも私は麻雀を止めることが出来ない。
もう今となっては全然勝つことはできないのだけれど、童女が顕れると私は何やら愉快な気分になってしまう。
なぜなら、彼女が私の点棒を喰べるとき。
それはそれは、美味そうに喰べるのだ。