こうやって自分の恥部を晒け出すことは苦痛なので、それで自戒になればと書く。
自分は今日ある新興宗教に潜入取材してきた。
日本人なら全員が全員、知っている新興宗教。
宗教学を学んでいる学生という名目で潜入し、講師の方の話をふむふむとメモを取りながら聞き、紹介された学生部の方の入信されたきっかけや信心を伺った。
その宗教の教義が科学やポリティカル・コレクトネス的に反しているのもあり、「カルト宗教やべえ〜」的なメンタルで聞いていた。
正直言って、その感想は今も変わっていない。
かなり長々と話を伺ったのだが、洗脳されたとかは一切なく、自分は無神論者のままだ。
その後、新興宗教に潜入したぞという達成感で興奮していたのと、非科学的な話を延々と聞いていて自分が生きている常識的な世界観に飢えていたので、友達に長電話でそのことを面白おかしく話した。
それも終えて「このことをブログに書こうかな?」とお風呂に入りながら逡巡していたところ、
「これって差別じゃね?」
とふと思った。
マイノリティである信者の内幕をマジョリティである世間に晒し上げる、という構図の差別。
もし、教団が事件を起こした、とか、被害を訴える元信者へのインタビューであるなら立派にジャーナリズムとして成立していると思う。
しかし、自分がブログに記事を書くのは面白がってもらう以上に意味はない。
自分の主観では、その教団に入信することで不幸になる(お布施で破滅したと語る元信者がいる)と思っているので、記事を読んで「やばい」という印象を持った人が入信しないという行動を取るのであれば、ジャーナリズムとして成功しているのかもしれない。
でも、やっぱりそれは希望的観測ではないだろうか、とも感じてしまう。
ドラッグを摂取する女性たちのルポルタージュにフィクション的要素を付け加えた『薬を食べる女』の著者である五所純子の言葉を思い出した。
「自分は『ルポ貧困女子』みたいな売れ線の仕事はやりたくない」
問題提起という言い訳を準備した上で、人を見世物にして面白がる。そういう本。
「自分の書こうとしたことって『ルポ貧困女子』と同じだよな〜」と思う。
「カルト宗教の実態!」みたいな感じで一方的にバッシングするのではなく、見たまま聞いたままを書こうという心構えはあったものの、実際それすら「安全な反省」であることは否めない。
もちろん、そういうものを仕事にしている雑誌もある。
週刊SPA!とか。
でも、真面目に信仰している自分の年齢と変わらない学生たちに表面上では「そうなんですか!奥が深い」とか言いつつ、裏では晒し物にしようとしていた自分には確実に嫌気が差した。
驚いたのが、学生たちはほぼ全員の方が自分より高学歴(つまり一般的には東京一工旧帝大)で、無知=宗教にハマるという構図は成立しない(もちろん学歴で知力の多寡が決定するわけではないが)。
それなのに自分は彼らが宗教の信者であるというだけで無自覚に見下している……だんだん書いていてバッドに入ってきた。めちゃくちゃバッドだ。
赤裸々に告白すると、迷っている自分がいる。
自分がやっていることは、PCへの忖度であり、過度な自主規制ではないか?
自分がその宗教を批判的に見ているのであれば、別にそれをそのまま書いてもいいのではないか?
という「書いてもいい派」の自分と、
非科学だから悪というのはおかしくて、功利主義的に考えて、信じることで不幸になる人より救われる人が多かったならば良い宗教なんじゃないか、だからお前のやっていることは不当な差別で、信者の方を傷付けるかもしれない、
という「書いてはいけない派」の自分。
あと身も蓋もないが、記者側が裁判で敗訴した実例があるので、「裁判で負けるから書くな派」もいる(それでも当初は書こうとしていたけれど)。
自分では判断がつかないので、このブログを読んでくれている人の意見が聞きたいです。