「大澤真幸『〈世界史〉の哲学』を読破しよう!」
ごく普通の大学生のおれはオカルト・アナキストを自称する謎の男と意気投合し、急遽2人読書会を開催する運びとなった。
この記事は、その第1回記録である。
『〈世界史〉の哲学 古代篇』の各章の要約に、おれとオカルト・アナキスト(以後アナキスト)が一言コメントを添えるという形式で進行する。
第1章 普遍性をめぐる問い
特殊な社会的文脈に依拠した特殊な物語が何故普遍的に私たちを感動させるのか?
そうした特殊性が否定であるはずの普遍性と直結するという現象、その極限が資本主義である。
西洋という特殊な文脈(当時は後進地域だった)から発生した資本主義が、何故こうも普遍性を獲得できたのか?
資本主義の胎児段階であるキリスト教から考える。
(詳しくは社会学者マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を参照)
キリスト教は、信仰する者は救われるという宗教に必要不可欠な普遍性と、「ルカによる福音書」の「マルタとマリア」のエピソードが象徴するような、キリストが過つことがある人間であるという特異性が合致してしまっている。
普遍性が特異性を媒介に維持されるという原理を探究していく。
一言コメント
おれ キリストの人間的なエピソードの記述は、太宰治『駈込み訴え』を彷彿とさせるね。
アナキスト マルタが可哀想。
※「マルタとマリア」のエピソード…マルタとマリアという姉妹が自分の家にキリストを迎え入れた。マルタがキリストを歓待するため家事に勤しむ間、マリアはキリストの足元に座り話を聴いていた。マルタが腹を立て、マリアが自分を手伝うようキリストに訴えた。キリストは答えた。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
大澤はここでキリストが判断ミスを犯していると指摘する。
第2章 神=人の殺害
世界史最大のミステリであるキリスト殺害事件に対し、新約聖書の分析からアプローチする。
すると、キリスト殺害事件は、キリストという具体的な身体が(時間的にも空間的にも民族的にも)普遍的なものとして抽象化したことの寓話であると解釈できる。
しかし、神が抽象的で不可視なのはそもそもキリスト教の母体であるユダヤ教の特徴であり、キリスト教固有の特徴ではない。
ならば、民族的な普遍性(ヤハウェはユダヤ人だけの神である)以外に、ユダヤ教とキリスト教を隔てる差異はなんなのだろうか?
一言コメント
おれ 聖書のテキスト的読解が面白かった。聖書が文学的に優れていることに首肯できる。
アナキスト 共同体が失われ、個人が普遍的な法と直接繋がっているという構図は、ポストモダン=現代と通じる所があるな。
第3章 救済としての苦難
この章ではキリスト教の母体としてのユダヤ教が分析されている。
通常人間の信仰を裏切り、苦難を与える神は人間に見限られてしまう筈である。
しかし、ユダヤ人はイスラエル王国の滅亡やバビロン捕囚という政治的苦難を味わわされてなお、ヤハウェを崇拝した。
それは何故か?
ここで大澤はカントが『判断力批判』で定義した美/崇高の対立軸を持ち出し、ユダヤ教の偶像崇拝禁止がまさに崇高の原理に従っていることを指摘する。
崇高の原理は、感覚的な不快が逆説的に超感覚的イデア=見えないものを予感させ、快楽に転じるというものだ。
同様に、ユダヤ人も苦難や不幸こそが救済への確証を与えるという逆説を信じた。
しかし、迫ってくるはずの「救済のとき」はやって来ず、「救済のとき」が経験的時間の彼方に設定され、黙示文学が誕生する。
一言コメント
おれ ユダヤ教が現在も生き残っている事実は、大澤が冒頭で「歴史の天使」の比喩を用いて語った「余儀なく選択することの反復」で歴史が生成されるダイナミズムを如実に感じさせる。
アナキスト イデア論を交えた「崇高」の解説は、否定神学みが深い。否定神学アナキストの自分としては大興奮であるが、結論部分で、その「快楽」がはるか彼方の未来へと先延ばしされる下りがよく分からなかった。
第4章 人の子は来たれり
前述したような崇高の原理に忠実な人物として、旧約聖書「ヨブ記」のヨブが挙げられる。
ヨブは神とサタンの賭けの対象にされ、不幸のどん底に陥ってもまだ神を信仰できるか、という実験の被験者になる。
ヨブが財産と家族を失い、重篤な皮膚病にかかった時点で神が出現する。
そこで神は何を語ったか?
端的に言って自分の自慢話であり、ヨブの苦難は説明されない。
神の無力さが浮き彫りになる。
苦難を媒介にして神の超越性を肯定する逆説(苦難の神義論)は、苦難があまりに過酷で正当化できないとき、神の無能性を証明してしまう。
私たちは、アウシュヴィッツでユダヤ人に何が起こったかを思い返すことで、それを再認識する。
エティ・ヒレムスというユダヤ人女性の日記にはこう書かれている。
「あなた(=神)は私たちを救うことはできない。そうではなくて、私たちが、あなたを救わなければならないのだ。そうすれば、結局、私たちは自分自身を救うことになる……。」
ユダヤ教的な「苦難の神義論」が待望する救済の状態、「神の国」をイエスはどう語っていたか?
イエスにとって、「神の国」は既に到達してしまっているものである。
しかし、ともすればその現状肯定は、保守主義に繋がってしまう筈だが、反してイエスは当時の支配体制への反抗者であった。
これは矛盾ではなく、イエスは「神の国」に到達しているからこそ、否定すべき現状の世界を変革しなければならなかった。
イエスが弾圧による死を予感しながら己の行動を止めなかったのは、自らのこうした啓示に賭けるほかなかったからである。
一言コメント
おれ イエスは熱い男だ。奴は凄い。
アナキスト 「神の国は近い」と言い、田舎で禁欲的な生活を送っていたヨハネに対して、「神の国は(既に)あなたの中にある」と言い、「人の子」として、現実の中にある現実への否定性に依拠しようとしたイエス。本書で描かれるイエスの行動こそが、アナーキズム的反乱なのかもしれない。
その②につづく
(2週間後くらいに更新する予定です)