(11月に行われた合宿にて読了した笠井潔『テロルの現象学』を、自分なりに咀嚼して要約を試みた文章。この試みは、本書の内容が後半になるにつれ難化したため挫折した。しかし、前半部分だけでも本書は文芸評論として優れているので、のちのち見返すためにここに挙げておくことにする。後半部分を書き起こすかは今後のモチベ次第。)
笠井潔『テロルの現象学』は、フランス革命のジャコバン派独裁を嚆矢として意識化された「なぜ政治的テロは行われるのか?」という問いを明らかにすることを試みる本である。
19、20世紀のロシアにおいて全面化した政治的テロリズムにおいて、
端的には<殺した者は殺されねばならぬ>と表現される、埴谷雄高によって「暗殺の美学」と名付けられた思想と、『革命の
そして、後者のネチャーエフの構想がレーニンの党として完成され、一党独裁の恐怖政治やクロンシュタット民衆反乱の弾圧、「絶滅=労働収容所」群島を生むことになる。
『テロルの現象学』は、そうしたテロリズムを背後から支えるものとしての<観念>を探究していく。
また、マルクス=レーニン主義(ヘーゲルの弁証法哲学とフォイエルバッハの唯物論の発展としての弁証法的唯物論!)を準備した思想であるヘーゲル現象学を、その内部から自爆せしめる試みでもある。
自己観念
第一章 観念の発生
思想家・吉本隆明は『書物の解体学』で、「人間は、観念の過程にあるかぎり、つぎつぎに、より<遠隔>にあるものを、対象として志向する」として、<遠隔対象性>という概念で観念の基本的性格を定義している。
この<遠隔対象性>の自然過程を典型的に体現しているのが、作家・高橋和巳の作品群である。
高橋の描く主人公たちは『悲の器』から『黄昏の橋』に至るまで、例外なくある観念に憑かれ破滅していく。
共通してあるのは、小市民的<生活>への嫌悪と破滅をもたらす<観念>の絶対的肯定である。
しかし、彼らは自身が掲げる「正義」や「理想」に純粋に殉じるのではなく、まず現実世界から疎外や抑圧されているからこそ、破滅の運命づけられた存在なのだ、と笠井は指摘する。
これらの諸作品はあまりに作者が主人公に同化してしまっているが故に、観念発生の必然性が明確にはならない。
その観念発生の秘密を、笠井は日本近代文学の出発点である二葉亭四迷『浮雲』の分析によって探っていく。
『浮雲』は一人の女をめぐる二人の男の三角関係が主題であり、主人公の誠実・高潔・生活能力ナシの文三が、恋敵である軽薄で実利主義的の昇と、ヒロインのお勢をめぐって争う物語である。
第一篇での文三は生活的無能を直視せずに自己正当化を図る点で滑稽・風刺的だが、お勢との衝突を機に第三篇で「変生」する。
文芸評論家・中村光夫によると、第三篇において彼は「行動とのつながりを失い、周囲の現実を精細に解剖しながら、たえずその動きに裏切られることを恐れ、同時に予期しているという、特異な遊離の状態」に陥る。
ここで主人公は近代的自我を手に入れたといえるが、それは「激しく観念を現実的な世界喪失=自己喪失した心理的結果」なのだという。
この作品における<内部(観念)>と<外部(生活)>の二項対立は、理想家の文三と現実家の昇の対立に由来するのではなく、前述したような自我の確立によってその近代的意味を付与される。
つまり、理想主義・生活的無能=<内部>、現実主義・社会的成功=<外部>という日本近代文学のイデオロギー的認識のコードがここで成立したといえる。
そして文三は、お勢の外見的な美を内面の美(高潔)と混同していた、と反省してみせるのだが、その実、新たな認識は確立した<内部>のスクリーンに映し出されたフェイクとしての<外部>の風景に見入っているだけに過ぎないのである。
文三が第三篇において置かれてしまった世界は、「神経症的に不気味な世界」であり、彼は異様な倫理でもって「苦しい自己反省とその結果の自己認識をお勢に理解させたいという執着」と「お勢の堕落を防ぎたいという意志」を有し、(お勢の住む)口喧しい叔母の家に同居し続ける。
「内的倫理の奴隷」と化した文三の自虐性は、いつでも反転して無制限の他虐性に転化し得るものである。
また、こうして生じた「倫理としての内部」と「認識としての外部」の把握は、高橋和巳の作品論で笠井が指摘したように、倫理の発生源(疎外の経験)を隠蔽する。
この隠蔽にはもう一つ重要な問題があり、近代的内面・内面を抑圧する外面が発見されるためには、「特異な遊離」の状態に陥って内面というスクリーンに映る認識を凝視している誰かが存在しなければならない。
<内部>と<外部>の二項対立は隠蔽された第三項によってのみ成立しているのだ。
文三が体現した近代的観念世界はあまりにも奇怪でグロテスクであったのか、二葉亭は『浮雲』の執筆を中絶し、筆を折ってしまう。
これらの問題に対し、日本近代文学は三種類の回答しか提示し得なかった。
①「内-外」の対立を行為と目的、愛と罪、欲望と倫理といった形態に展開し、「耐えろ」と言うしかなかった漱石。
②認識と論理の対立に倫理の一元化という応答をした自然主義-私小説。
③倫理的問題を芸術至上主義に棚上げしたモダニズム-新感覚派。
その後、プロレタリア文学(マルクス主義)が蛮族めいた荒々しさで侵入してくるのだが、それも二項対立を強引に党派観念に解消するものでしかなかった(党派観念については後述)。
第二章 観念の欺瞞
観念の基本性格は<自己欺瞞>である。観念の自己観念とは、観念に対する悪しき信仰である。この章ではサルトルの戯曲『悪魔と神』とドストエフスキー『地下室の手記』が分析される。
サルトル『悪魔と神』は、知的余計者としてのインテリゲンチャ論が主題である。
彼らは世界喪失者であり、他者から疎外される苦痛を観念の自己疎外(前章における隠蔽や自己正当化)によって観念的世界回復=自己回復を企てる。
『悪魔と神』において、彼らは「私生児」として形象されている。傭兵隊長のゲッツと破戒僧ハインリッヒ、二人の私生児が登場する。
ゲッツはハインリッヒに対してこう語る。
おまえだってそれと変わらんぞ。半分の坊主が半分の貧乏人にくっついたって、一人の完全な人間にならん。おれたちは存在しない。おれたちは何ももたぬ、正当の嫡子はみんな無償でこの地上を享楽できる。おまえやおれはだめだ。子供のときからおれは世界を鍵穴からのぞいている。
このような世界喪失者の内的感情の正体とは何か?
その解答は、過剰な自尊心としてそれが満たされない屈辱感である。
そして屈辱とは、世界が<私>を通してしか表れてこないのに、世界は<私>を抜きに成立しているという逆説的構造に由来している。
つまり、この世界では、誰もが本質的に私生児でもある。
主人公ゲッツは<悪>を働くことを目的とし、他者の秩序を破壊することによって自己存在の絶対化を試みるが、ハインリッヒに不可能なのは善の方だと告げられると絶対の善を為そうとし、そのことによって屍体の山を築き上げる。またハインリッヒは神の全能を信じるが故に<一人の幼な子>の死さえ善として肯定してしまう。
このような私生児たちの自己欺瞞を批判的に描くことによって、サルトルはかなり高水準の観念批判を実現している。しかし、彼らの批判者として<民衆>を持ち出してくるのだが、これではまだ観念-生活という「内-外」の近代的二項対立から抜け出すことができていないのである。
次に、ドストエフスキー『地下室の手記』について。本作は当時ロシア青年が熱狂していたチェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』への反論として書かれた。また、各人が各々の合理的欲求の追求によって社会的にも調和と幸福が保障される「合理的エゴイズム」によるユートピア的未来社会への批判でもある。
ドストエフスキー後期作品群は、「無神論と把握される近代的観念」に執拗な批判を加え、他方で「予感としての神の方へ渾身の力業でにじり寄ろうとする試み」である。
『地下室の手記』は、理想主義であろうと反理想主義であろうと共通する観念的なるものの、隠された構造を暴露する作品である。
ドストエフスキーは、<民衆>や<生活>が観念の外部だと僭称し観念を批判するのではなく、その内部から食い破ろうとせんとしたことで「現代的」な作家だといえる。
第三章 観念の背理
近代において、観念の背理をもっともラディカルに体現したのは<革命>という観念である。
1870年代、理想主義を掲げた青年インテリゲンチャたちは農奴制支配下にあるロシア農民を解放するためにナロードニキ運動を展開したが、農民の無関心と専制権力の弾圧によって崩壊した。
インテリゲンチャという言葉自体、ナロードニキ運動から生まれた。
インテリゲンチャには、「知的無用者」というニュアンスが含まれていたが、「知的であるけれど無用」なのではなく、現実的に無用だからこそ唯一の脱出口として「知的に」観念的に自己をせり上げていくしかない宿命こそ、インテリゲンチャを定義する。
19世紀前半、ロシアのインテリゲンチャは、西欧的理想主義のために「祖国の土と国民的本質」を拒絶したのではなく、そもそも「祖国の土と国民的本質」から拒絶された存在であった。
彼らの「子供世代」であるナロードニキ運動の担い手たちは、「親世代」の屈折の中で打ち立てた理想主義が前提化されてしまった(祖国からの疎外体験が抜け落ちていた)ために、<民衆>の方に向かい、当然急速に挫折していく。
ナロードニキ運動の壊滅後、1881年皇帝アレクサンドル2世暗殺に結実する血みどろのロシア・テロリズムの時代が開幕する。
私たちインテリゲンチャは組織されていず、また肉体的にも弱いので、現在のところ公然たる闘争に従事する立場にはない。…このかよわいインテリゲンチャ、大衆の利益にまだ専念していないインテリゲンチャは、その思考する権利をただテロリズムの手段によって擁護するより仕方ないのである。
レーニンの兄アレクサンドルが法廷でこう弁明したように、ロシアのテロリストの多くは自身の行為に屈折した感情を抱いていた。彼らはあらゆる革命戦術の中にテロリズムが最悪の戦術だと自覚していたが、権力への全面的屈服よりはマシだと考えていた。
こうした理想を信じながら理想とはほど遠い行為に走っていくテロリストたちの観念の背理は、カミュの『正義の人々』において主題化されている。
本作では皇帝の叔父セルゲイ大公の暗殺を遂行するために、同乗していた子供までもを爆殺することは許されるか?という問いをめぐる議論が行われる。
そしてテロリストであるステパンは、下記の結論に達する。
ステパン …そんな子供のことなんぞどうでもいいと俺たちが決心したとき、その日こそ、俺たちは世界を支配し、革命が勝利を得るんだ。
ドーラ その日こそ、革命が人類全体の憎しみの的になるわ。
ステパン いっこうかまわんじゃないか、革命を全人類に強制し、その人類を、現在の状態から、その奴隷状態から救い出そうというほど革命を愛してるんなら。
ドーラ でも、もし人類全体が革命を拒絶したらどうなの? もし人民全体が、あなたが味方して闘っているその人民全体が、自分の子供たちの殺されるのを拒絶したらどうなの? そうしたら、その人民までやっつけてしまわねばならないわけ?
ステパン そうさ、必要とあらねば、そして人民に納得させるまでさ。俺だって、人民を愛している。
ドーラ 愛なんてそんなものじゃないわ。
またセルゲイ大公の暗殺に成功するカリャーエフは、暗殺の前に神に祈りを捧げるが、処刑されるに至って宗教の助けを拒絶する。
こうした「神を信じられない」が、「神なしでやっていくことができない」ロシア・インテリゲンチャの運命を文芸評論家・ベルジャーエフは次のように語る。
いつごろから『知識階級』と呼ばれていた文化層の意識は、十九世紀において悲劇的となった。それは病的な意識であって、そこには健康な力はひそんでいない。…大海のようにはてしない、暗い民衆の深淵を身近に見て、文化層は自分たちの寄るべなさを痛感し、この深淵に呑み込まれる息詰まるばかりの危険を感じた。…『民衆』は『知識階級』にとっては、神秘的な、異様な、そして魅惑的な力のように見えた。『民衆』には真の生の秘密がかくされてある、そこには或る独特の真理がある、そこには文化層が失ってしまった神がある、と彼らは考えた。『知識階級』は自分自身をロシアの生の有機的な層であるとは感じなかった。彼らは統一を失って、根から切り離されていた。
ここでも見失った神を再発見するという欲望によって、現実的世界喪失=自己喪失経験が観念的世界回復=自己回復の企てによって埋め合わされるという構図がやはり繰り返されている。そして、ステパン的な「理想主義の敵は理想であり、革命の敵は民衆である」という倒錯の自明化は、やがて共産主義の虐殺の悲劇を招くことになる。
共同観念
第四章 観念の矛盾
この章では、現実的世界喪失=自己喪失が共同観念からの脱落に因るものだということが、主にユダヤ教・キリスト教の分析を通じて記述されている。
笠井の区分によると、紀元前500年を中心とする前後200年間に中国からギリシャまでの旧大陸全域で<観念革命>が起こった。
この時期に発生する儒教、仏教、ユダヤ思想によって、「宗教-法-国家」の共同観念の時代は、自己観念の時代へと移行する。第一章から第三章で述べられた観念とは自己観念のことであった。
こうして思想化した観念は、例外なく存在論と倫理を神話的思考から分離させ、世界と人間を対象的かつ主体的に把握するものである。
その観念の極致として、世俗化・脱宗教化を進行させた共同観念の神(観念的制度としての宗教)と自己観念の神(観念的制度への反逆・脱落としての宗教)は、近代国家および近代的自我という形で完成に至る。
ドストエフスキーによると、観念的制度としての宗教はその実「無神論」であり、「神の力を借りずにバベルの塔を建設しようとする」試みが、自己観念における神の極点<革命>であり、それに対応するのが共同観念における神の極点<社会主義>であるという。
こうした形の神、つまり未だ到来しておらず予感される神は「不在の神」(シモーヌ・ヴェイユ)であり、<観念の外部>を指し示す唯一の言葉である。
分析においては、イエスの時代に俗化して社会を現状維持するための形式的慣習に陥っていた<共同観念>としてのユダヤ教に反抗して、<自己観念>としてのイエスをはじめとする原始キリスト教が社会倫理を内的倫理に転化させ、社会や生活を否定するまでに観念を極端化させる過程が記述されている。
しかし、そのように生まれた自己観念は、原始キリスト教がローマ国教となってしまったように共同観念に成長転化する必然性を持つ。
すると、繰り返し共同観念に対してラディカルな自己観念が析出されていく。
第五章 観念の逆説
前述してきた他者から疎外される経験によって生まれた自己観念が他者憎悪へと凝縮する時、観念の逆説と倒錯は<肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪>の三位一体の完成に向かう。
観念としての私は、もっとも近い他者としての肉体を憎悪すべき肉体のメタファーとして了解する。肉体はテロルの対象である。
たとえば、ベネディクト会に属するマルタン・ヴェルガ修道院の修道女たちは常に粗食しか口にせず、会話はごく短時間しか許されていなかったし、吉本隆明は「ぼくたちは肉体をなくして意思だけで生きている」と書きつけた。
対して、ドストエフスキー『悪霊』に登場するキリーロフは肉体が死に限定されているが故に観念の絶対性を呼び込んでしまうとして、観念を殺害するための肉体の抹殺を主張した。
「……欺瞞が殺されるのです。だれにでも最高の自由を欲するものは、必ず自殺する勇気をもってなくちゃならない。自殺する勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破ったのです。もうそれ以上の自由はない。その中にすべてがあるのです。それより先には何もありません。自殺する勇気のある者は、もう神になったのです……」
しかし、彼の肉体憎悪=観念憎悪による自殺哲学自体が一種の観念に他ならないのであり、そこで浮かび上がってくるのは観念の極限化による観念の肉体憎悪の乗り越えという意図である。
第六章 観念の倒錯
観念の逆説としての肉体憎悪は、喪失感すら残らない霊的・超越的体験が完全に不在になると、無惨に荒廃した真の相貌を現す。三島事件と同時代の、内ゲバで合計十四名の死者を出した連合赤軍事件がそうであった。
最もグロテスクなのが、「処刑」と自覚されているのが四名に対してのみであり、残り十名の死が<総括>の結果の自然死として了解されたことにある。
<総括>の真の意味とは何であったか?
指導者であった森恒夫は「最後通牒的な一挙的共産主義化の要求」だと述べる。
……連合赤軍兵士として自己を高めていくこと=革命戦士の共産主義化は最終的に銃による殲滅戦をやり切る決意の問題に収斂されていき、共産主義化の闘いを観念的な決意主義的なものに変質させる端緒をつくったのである。又、これらが「山岳ベースでの自己批判-相互批判」こそがあるいは山岳ベースでの生活での生活こそが革命戦士に不可欠であるという考えと結合され「山岳ベースで自己を改造する」事を要求することになっていったのである。
「銃による殲滅をやり切る革命戦士に各人を改造する」とは、殺すにせよ、殺されるにせよ、主体が<死>をどのように受容するかという問題である。そして、敵を殺すために仲間を殺すという悲喜劇的倒錯は、<死>を事実として出なく観念として把握したことの必然的結果であった。
彼らは「追い越し得ない可能性」としての<死>に、恣意的に「追いつこう」として無益な努力を重ねてしまった。「現存在にとって絶対的不可能性」である<死>を「絶対的な可能性」に転化すれば、「現存在であることの可能性」を喪失してしまう。
また笠井は、生理的水準での事実的必然性の認識(リンチすれば事実として死ぬ)が抜け落ちて「革命戦士の敗北=死」という観念を信じた連合赤軍指導者・永田洋子の分裂をヘーゲルの「不幸な意識」そのものだとして考察する。
しかし、「不幸な意識」はヘーゲルが設定したように「理性-精神-宗教-絶対知」という上昇過程の出発点ではなく、否定態としての党派観念を呼ぶ。
革命という観念は、肉体憎悪から生活憎悪に転化する。生活憎悪とは、肉体性の必要のために組織される生存空間、つまり生活世界(近代市民社会においては家族生活や職業生活)への憎悪である。
ドストエフスキー『悪霊』の主人公ピョートルのモデルとなった19世紀ロシアの革命家、ネチャーエフの書いた『革命の
革命家とは、前もって刑をいいわたされた人間である。彼は情熱的な関係も、愛玩物も愛人も持つべきではない。彼は名前さえない方がいいのだ。彼のうちにあるすべてのものは唯一の情熱、すなわち革命に集中されるべきだ。……革命家はすでに死刑を宣告された者である。彼は個人的な興味も個人的な感情ももたない。彼らはただ一つの観念を持っている。革命がそれである。……彼は冷ややかでなければならない。彼はつねに死ぬ用意をしていなければならない。彼は苦痛に耐える訓練をしていなければならない。
吉本隆明が『転向論』において分析したように、頭から叩き潰されるような肉体攻撃に耐え抜いた戦前日本の革命家たちも生活を攻撃されれば容易に大量転向してしまう。
また、連合赤軍が組織保存のために山岳アジト路線をとったのも、革命という観念が成熟した戦後市民社会の中では摩滅してしまうという危機感によるものであり、生活憎悪の直接的結果である。
しかし、連合赤軍は恋愛関係・妊婦・幼児の存在など家族生活に関する問題になんら対策を講じ得なかった。つまり、生活憎悪に対して無自覚であり、肉体憎悪にのみ埋没していたのである。
続いて起こった東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件では、生活憎悪と民衆憎悪が主題となっている。
彼らが発行したパンフレット『腹腹時計』には、次のような記述がある。
◎家族との関係をことさらに絶つ必要はない。ベタベタする必要は全くないが、ある日突然連絡を絶つことは、余程の事情がない限り止めた方がいい。突然関係を絶つことに依って、かえって身動きのとれなくなる場合も起こり得る。
◎家族を抱き込むか、関係を絶つかという二者択一をする必要はない。「反戦、反安保」で共闘することとは根本的に異なるのだから、全面的な交通を保つことはできないのだ。われわれにとっての全面的交通とは同志関係のことである。従って、普通の家族関係があればいいのだ。
ここでは生活憎悪が冷静に対象化される。
この事件最大の問題点は、三菱工本社ビル爆破闘争の直後に出されたアピールにおいて発見される。
“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、「同じ労働者」でも「無関係の一般市民」でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画、植民地人民の血で肥え太る植民者である。“狼”は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。戦死と恐れぬ日帝の寄生虫以外は速やかに同地区より徹底せよ。
ここでは闘争に同調しないごく普通の民衆に対し、大量殺戮の権利を露骨に主張している。観念の民衆憎悪の宣言だといえる。
このような観念の「逆説-倒錯」の過程で、<肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪>の三位一体は最終的に完成されていく。
肉体・生活・民衆。これらは観念を相対化する観念の外部のシンボルとして機能する。
人物や組織、作品の分析を通して繰り返し詳述された観念の外部憎悪は、不幸な意識という自己分裂の極限へと導き、その転倒的な<止揚>は、観念による観念の外部の簒奪という新たな水準を開く。自己観念は党派観念へと転化していく。