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2023/2/7日記 ジェイムソン『政治的無意識』③

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マルクス主義の哲学者ルイ・アルチュセール(1918-1990)

アルチュセール構造主義マルクス主義(pp,25-30)

ニーチェ的な反解釈的潮流は、アルチュセール構造主義マルクス主義にも見つかる。

アルチュセールの立場は、三つの因果律形式(あるいは「効力」)の歴史をめぐる彼の理論で明らかにされている。

以下、ジェイムソンのアルチュセール資本論を読む』からの引用をいくつか孫引きしてみよう。

〈政治経済学〉に対するマルクスのラディカルな修正によって浮かびあがった認識論上の問題は、次のようにいいあらわせるだろう。特定の領域の諸現象を、その領域の構造によって決定するのが、新しいタイプの決定論であるといましがた確認したわけだが、では、いかなる概念を用いたらこの新しいタイプの決定論について考えることができるのか? と。……別言すれば、どうしたら構造的因果律を定義できるのか?

アルチュセールのいう、効力に関する思考において、古典的哲学で利用できる2つのシステム。

  1. デカルト哲学に端を発する機械論的システム(因果律を、《推移的》で分析的な効力に還元する)
  2. ライプニッツの《表現=表出》システム(全体を《内的本質》に還元する。要素もしくは部分に対して全体が及ぼす効力について語ることができる)

↑2は「諸要素のそれぞれに対し全体がいかなる効力をおよぼすか思索可能にする」点でよさそうに見えるが、このシステムが使用する内的本質/外的現象というカテゴリーは、「全体がある種の本性をもつことを前提としてしまっている」。「そのカテゴリーでは、全体は構造ではないということが絶対条件だったのだ」。

そして、効力に関する第三の概念、構造的因果律の概念。

マルクス主義の価値理論全体のキー概念、〝Darstellung〟[表象]概念は構造的因果律概念の要約である。〝Darstellung〟[表象]は、「構造がその諸《効果》[=結果]のなかに《現前》する様式を具体的に示す」ものである。

構造の「換喩的な因果律」のなかで、構造の効果に原因が不在であるようにみえるのは、構造が外在的なのではなく、構造がその効果のなかにひとつの構造として内在しているからである。

効果は、構造の刻印を待つ、あらかじめ存在している対象なり要素なり関係ではなく、その効果のなかに、効果というかたちで遍在する。

構造とは、スピノザ的な意味でいう、結果に内在する原因である。

↑すげー面白いけどムズイナーと思っていたら、直後にジェイムソンの説明。

第一のタイプの効力、デカルト的機械論は、ビリヤード型のモデルで、つまり原因と結果のセットで考えるもの。

アルチュセールが改訂を試みる)伝統的マルクス主義の理論にも、たとえば悪名高い「下部構造」と「上部構造」のなかに、この機械論的モデルが含まれている。

このモデルは、「ガリレオニュートンの世界観と結びつけられ、現代物理学の不確定性原理によって克服されたと考えられている」が(そうなんだ)、ジェイムソンはこの「機械論的効力のカテゴリーでも、文化分析のなかで局所的にせよ有効性をおびることもある」と主張する。例として、19世紀後半の出版業界の危機による→ギッシングのような作家の小説生産形態の変容。

だが、ほんとうにスキャンダラスなのは、特定の形式上の変化についてのこうした思考法ではなく、むしろそのような客観的出来事やそのような性格の文化的変化が起こっているという事実なのだ。そのようなことの起こる世界では、使用価値と交換価値が袂を分かっているため、まさにいま述べたような「スキャンダラス」で外在的なタイプの不連続性や、亀裂や、ちぐはぐな作用が生まれる。この不連続性、この亀裂、このちぐはぐな作用は、「内側から」つまり現象学的に、把握しようとしてもむりで、理解しようと思うなら、まずそれらを徴候として再構成せねばならない。な んといっても、徴候の原因は、その結果とは別の現象秩序に属しているのだから。さて、こうなると、機械論的因果律は、それ独自の観点にもとづいて評価されるような概念というよりも、私たちの特殊な物象化された社会的・文化的生活を支配する、さまざまな法則や下位システムに関する概念であるとわかる。この因果律に支配された偶発的経験に直面することは、文化批評家にとっては、むしろありがたいことなのだ。文化批評家にとって外在的なるもののスキャンダルは、文化生産を最終的に規定する物質的基盤を、そして「意識を決定する社会的存在」の力を、あらためて思い起こさせてくれるからである。(p. 29)

↑機械論的因果律は、「私たちの特殊な物象化された社会的・文化的生活を支配する、さまざまな法則や下位システムに関する概念」かー、うーん。たとえ機械論的因果律が、科学的に否定されるものだとしても、私たちの生活において容易に手放すことができる思考モデルではないよね、というのはわかる。「原因と結果」、めっちゃ使うもん。

したがって、機械論的因果律 「概念」に対するアルチュセールイデオロギー的分析には、反対せずにはいられない。このカテゴリーは、なるほど満足のゆくものではないかもしれない。だが、それは、たんに虚偽意識の一形式のみならず、私たちをいまだに呪縛している客観的矛盾の徴候でもあるのだから、簡単に否定されてもこまるのである。(pp, 29-30)

読み間違えていた。アルチュセールは効力に関する3つのうち、機械論的モデルと《表現=表出》モデルを批判するが、ジェイムソンはそれに必ずしも同意しないって構図か。

さてここまで語れば、次のことも明らかになるだろう。アルチュセールの議論がはらむ問題の核心のみならず、今日の文化批評においてもこのうえなく重要な問題点(そして危険な陥穽) とは、彼が列挙する二番目の効力の形式、すなわち「表現型因果律」である、と。「全体化」のスローガンを掲げて、アルチュセールがおこなった「表現型因果律」批判に対抗しようとしても、肩すかしを喰らうだけだ。なぜなら、ほかならぬ アプローチ。 全体化そのものが、「表現型因果律」と決めつけられた思考法のひとつに組みこまれているのだから。この「表現型因果律」 批判が標的にしているのは、古くは、特定の歴史的段階における世界観とか時代様式に関するさまざまな概念化(テーヌ、リーグル、シュペングラー、ゴルドマン)から、新しいところでは、ある特定の歴史的一時期における認識基盤もしくは記号体系のモデルをこしらえようとする現代の構造主義的・ポスト構造主義的営為ーーフーコードゥルーズ/ガタリ、ユーリイ・ロトマン、あるいは現代の消費社会の理論家たち(なか でもとりわけジャン・ボードリヤール)の試み――までと、目をみはるほど多岐にわたっている。そこでこう列挙してみてわかるように、アルチュセールの批判がめざすところは、「表現型因果律」を駆使した中心人物であるヘーゲルの仕事――なにしろ、非もしくは反-ヘーゲルの立場を公然と表明している思想家たちのなかにも、 そのヘーゲル因果律の影響はありありとうかがえるのだから――のみならず、もっと広い範囲に及ぶということだろう。と同時に、ここで争点となっているのは、一般的にいうと文化の時代区分の問題、個別的にいうと、 「歴史的「時代」のカテゴリーに関する問題だということも、それとなくわかる[たとえば時代精神などを考えようとすることも、表現型因果律にのっとった思考法である]。(p. 30)

アルチュセールの「表現型因果律」批判の射程広すぎる……!!!

時代精神を云々するもの、フーコーエピステーメー概念とかも批判するわけかー。リアリズム/モダニズム/ポストモダニズムの単線的な文学史なんか、批判対象の典型なわけか。そこらへんの批判は最近なんとなく掴んできた。たしかランシエールも『感性的なもののパルタージュ』で、モダニズムという概念に対する批判を展開していたはず。

いやそればかりではない。マルクス主義に固有の「表現型因果律」モデル群もまた、アルチュセールの攻撃の的となるだろう。ただし、マルクス主義のモデル群のほうは、アルチュセールとはやや異なる観点からも、媒介実践の無視として、また個人実践と集団実践双方に関する かなりいかがわしい観念論的概念を劇的に表明しただけのものとして、手きびしく非難されてきた。この二種の非難については、本章の終わりのほうで、とりあげようと思う。(pp, 30-31)

こっちの方の批判は、伝統的マルクス主義に詳しくないから全然ピンと来ない。

アルチュセールの「歴史主義」批判(pp, 31-33)

時代の区分化の実践を根拠付けている「歴史主義」にアルチュセールは批判の矛先を向ける。

アルチュセールの著作における「歴史主義」は政治的含みを持つ暗号であり、彼が「歴史主義」と名指すのは、社会主義への移行を、いわゆる『段階』というかたちで区切るさまざまなマルクス主義理論である」。具体的には、「レーニン帝国主義理論や、『社会主義』と『共産主義』を区別するスターリンの理論をへて、はては歴史的発展に関するカウツキーや社会民主主義の図式にいたる理論」である。この「歴史主義」に対するアルチュセールの攻撃は、当時のフランス共産党内部における反スターリン主義闘争の一部でもあった。なお、構造主義記号論の立場でなされた歴史主義批判の古典的な仕事にレヴィ=ストロース『野生の思考』最終章「歴史と弁証法」がある。

↑原注一章☆12。最後のはたしかサルトル批判だっけ?前半部は重要だから、本文に書いてくれよ。

さて、こうした「歴史主義」は、「ひとつの時代が全体としてまとまっているという」全体化の操作によって、「縫い目のない現象の網状体」を仕立て上げる。この網状体では、なんらかの統一された内的真理、その時代の「世界観」や「時代様式」や「一連の構造的カテゴリー」を、個々の現象がそれぞれ独自のやり方で「表現」する。

↑いちいち括弧をつけたのは、これらは虚構だとアルチュセールが批判するものだから。

これはD&Gがフロイト理論を非難した理由と同じような、歴史主義による還元操作である。

このように拵えられた「歴史的全体」では、必然的にその全体内部の一要素を分離し特権化する操作が行われる。その一要素が「全体」のなかの他の要素や特徴を解明する「内的性質」、マスター・コードになってしまう。

↑そうしたやり口は、他の要素や特徴を解明するどころか実質無視してしまうわけだ。

しかし、時代区分化の「そうした手続きは、文化研究の分野でどのような仕事をおこなうにせよ、満足のゆかないものであるとともに、実は必要不可欠であるようにも思われる」。(p. 32)

また、この問題に加えられる、もっと大きな問題、〈歴史〉そのものの再現=表象の問題がある。

  1. すべてが縫い目のないかたちで緊密に関係づけられる「時代」のなかでは、私たちは時代の全体的システムに直面しているのか、観念論的時代「概念」に直面しているにすぎないのか定かではないという問題。
  2. 時代や段階、契機の連続といった直線的な形式で歴史を捉えてよいのかという通時性の問題。

ジェイムソンによれば、後者がより重要である。個々の時代構成にはつねに密かに「説話」としての物語による再現=表象が含意されている。

アルチュセールの批判する「表現型因果律」ないし「歴史主義」を実現する形式とは、テクストや人造物の因果連鎖が、より「基本的な」物語に還元されるスケールの大きいアレゴリカルな解釈である。

そのアレゴリカルな解釈で与えられる「基本的な」物語、マスター・ナラティブの例として、ヘーゲルの歴史哲学や(マルクスの?)唯物史観、シュペングラーの破局的歴史ヴィジョンが挙げられる。

アルチュセールが『歴史・人間・階級』で主張したテーゼ、「歴史とは、《テロス》なき、主体なき過程である」とは、こうしたマスター・ナラティブ、それに付随する物語の閉止=完結(《テロス》)と登場人物(歴史の主体)の批判である。

 

ジェイムソンによれば、この歴史のアレゴリーは「神学的」と称される。次いで、聖書の解釈学、聖書の字句を四つのレベルに分けて解釈する体系について検討される。これはマスター・ナラティブの構造を鮮やかに浮かび上がらせる。