読書会を通じて知り合った仏文科の優秀な友人と食事に行ったら、なんと、比較文学が変革する可能性について論じられている、スピヴァク『ある学問の死』第一章「境界を横断する」の5.6時間連続読書会が開催されてしまった!!
せっかくの読書会、やりっぱなしではもったいないので、備忘録として最中にとっていたメモをブログにアップしておくことにする。
以下、スピヴァク『ある学問の死』一章「境界を横断する」読書会レジュメになります。誤読などのご指摘があれば、コメントしてくださると嬉しいです!(≧▽≦)
p. 3
・比較文学研究が変革をはじめようとしたのは、多文化主義とカルチュラル・スタディーズが台頭してきた1992年のときである。
p. 6
・比較文学とカルチュラル・スタディース*1/多文化主義の単純な結合は、うまくいきすぎる(文学は文化・社会を表象するものだと盲信する)か、全くうまくいかない(文学は文化・社会を表象できないという結論に陥る)のどちらかになる。
・エスニック・スタディーズ(文化人類学。民族に依拠)と地域研究(地域に依拠)の安易な結合もまた、文学的なものや言語的なものの軽視につながる恐れがある。
・しかし、スピヴァクはそれらの学問分野同士の敵対心を除去することをまず提案する。(たとえば、比較文学のカルスタ化は文学理論の浅薄な援用を招く!という攻撃的な批判に対して)
p. 8
・専門の垣根を取り払うべき。「比較文学は世界全体にわたる広汎なものであるべき」とスピヴァクは考える。
p. 10
・「わたしたち周縁にいる者たちは、地域研究、人類学といった周縁についての専門家たちとの接触をさけがち」。
↑ここでの「わたしたち周縁にいる者たち」は、比較文学者とも、スピヴァクがそうであるような移民としても捉えることができる。
・地域研究やエスニック・スタディーズは現状追認的になりがち。
↑「衰微しつつある資源」(p. 10)とあるように、既存のパイを研究者が取り合っているイメージ。
・対して、新しい比較文学は「可能性としての学」である。
p. 11
・なのに、従来の比較文学はヨーロッパ中心主義的なものにとどまっているので、そこから脱却しなければならない。
p. 12
・人文科学に支えられない地域研究は境界を横断すると称しながら、その実、侵犯している。
↑みずからのオリエンタリズムへの批判的観点が欠如している。
pp, 12-13
・地域研究とカルスタの対比。ここではカルスタが批判されている。
地域研究……脱ディシプリン志向で、エリアに基づいて思考する。言語習得などの質が高く、保守的だが、政治的狡知さがある(研究対象の諸国の権力エリートとの結びつきを有している)。
カルスタ……メトロポリス(宗主国、(新)植民地主義的な支配を行う先進国)の言語中心で行われている。現在主義、個人主義、アカデミズムの表面的な政治化を推進する傾向。
P. 13
・カルスタにとっての真の「他者」は、ヨーロッパ諸国民言語学科が提供するヨーロッパ諸国民言語学科が提供する文明論コースである。
↑「ヨーロッパ諸国民言語学科」はおそらく「仏文科、独文科」のような学科のことを指している。カルスタ・地域研究にとって専門性を固守しようとするヨーロッパ文学科は共通の仮想敵である。閉鎖的な専門性の解体作業に、比較文学科も参入せよ、ということ。
p. 14
・冷戦下において、地域研究は地域相互の、比較文学はヨーロッパ国民間の敵対心を土台として生まれた。
・この「地域」と「国民」との間にある分断状態を切り抜けるため、比較文学は、旧来の「国民」別の境域のうちに、フランス語「圏」・ドイツ語「圏」etcを導入することで、「国民」概念の流動化を図るが、結局のところ、覇権的言語の支配体制の強化に加担しているのではないか?という懸念がある。
p. 15
・比較文学の新たな一歩……英語「圏」・フランス語「圏」etcの研究から脱却し、(南半球の?)他者の言語に対して静的な対象としてでなく、流動的なものとして接近する。
p. 16
・あらゆる言語を混血的/雑種的なものとみなす言語的訓練をスピヴァクは奨励する。
・「言葉でつくられたテクストはみずからの言語的な特徴を守ることには熱心だが、国民的同一性には耐えがたいものを感じる。この逆説があるからこそ、翻訳の需要は高まるのである」。
↑ここでの“demand”は、「需要」より「要求」ととった方が正確? なぜテクストは内在的に翻訳を要求するのか、という問題(スピヴァク「翻訳の政治学」やベンヤミン「翻訳者の使命」と関連しそうなトピック)。
・従来の比較文学がヨーロッパの覇権的な言語の完全習得を要請しなかったように、「新しい比較文学もまた従属的な地位に置かれた言語のすべてを習得するよう学生に求めたりはしない」。
↑フランコ・モレッティの『遠読』批判。安易にデータ分析に飛びつくより、堅実に言語習得するべし。
P. 17
・デリダの引用。「概念は慣用的な語法として定着した差異を超越することはできない」。このような知見は、もちろん非ヨーロッパ言語にも当てはまる。
・第三世界(いまこのような呼称が適切かはわからないが)の人々の慣用的な語法への関心が、比較文学の変革にとって重要である。それを無視して協力関係だけ結びたいという姿勢には問題がある。
p. 18
・(来るかもしれない)新しい比較文学はヨーロッパ言語に依存した植民地主義を払拭し、歴史学と人類学と連携して、「他者」(主に第三世界の人々?)と接触する。
p. 19
・アメリカの学校教育は、多様な人種・ジェンダー・階級の交差する現状に対応できていない。
・スピヴァクの経験によれば、英語の覇権主義を内面化した英語を母語とする学生よりも、「社会的な生存と必要に迫られて」第二言語として英語を選択せざるを得なかった学生の方が想像力の柔軟性に優れている。
p. 21
・「『ジェンダーと開発』の外部においては、人権の問題は、ほとんどの場合、軍事的介入に立ちいるような、貿易と関連した政治的パラダイムの内部に閉じこめられてしまっている」(p. 21)。
・(普遍的な人権概念が存在する、というような)結論をあらかじめ想定せず、文化的に多様な倫理体系への通時的な接近を図るべき。
↑ヨーロッパ的な「人権」理念を押し付けるな!という主張。
p. 22
・多様な倫理体系への接近を試みるような研究は、特定の利害関心をもった情報提供者(ネイティブ・インフォーマント)に依存するより、言語に基礎を置いた文献調査をするべきである。
・スピヴァクは、比較文学の範囲を拡大することによってジェンダー教育と人権問題への介入を補完することを目指そう、と主張している。
p. 23
・人類学者と、スピヴァクが自らのものとするような想像力をもった読者、この二つの立場には大きな差異がある。
・スピヴァクは文学教育の役割を他者化すること/他者として接するための想像力を訓練することにあると再定義する。
↑リチャード・ローティも『偶然性・アイロニー・連帯』で似たようなことを言っていた気がする。
・そのとき、翻訳の仕事は、身体から倫理的記号作用への翻訳、「生」と呼ばれる絶え間ない往復運動となる。
p. 24
・メラニー・クラインの引用。幼児の発達段階において、まさにこの「翻訳」行為がなされているのだとする(幼児は、内部と外部の把握を繰り返し、把握されたものを通じて自身に現れてくるものをひとつの記号体系のうちにコード化する操作をしているらしい)。
・翻訳によって補完を試みることは、第三世界における人権を考える上で役立つ。
・グローバル化が進行する現在、大規模な人口移動が擬似国家的な集合体を生み出しつつあり、カルチュラル・スタディーズ/エスニック・スタディーズのステレオタイプな生産者・消費者の見方は、これに対応できていない。
・国境の仮想現実化が一部を形成しつつある「不確かな未来」を両者は見ることができない。新しい比較文学はこれを可視することができるのではないか。
p. 26
・土着自生的なものの文学的特性を考える上で、比較文学と地域研究が協働することで、グローバリゼーションに対抗する可能性がある。
p. 27
・グローバリゼーションにおける境界横断の不均衡がある。
↑ウォーラーステインの世界システム論と同様の趣旨でよいか。たとえば、発展途上国でアメリカのテレビ番組が放映されていたとしても、その逆はない、といった事態。
・このような状況を描写した例として、マリーズ・コンデの第一作目の小説『エレマコノン』が挙げられる。
p. 28
・サバルタン*2階級である小説『エレマコノン』の語り手が、上流階級のフランス人女性に対して自身の環境における言語の異種混淆性について話すが、フランス人女性はその話題をスルーする。
p. 29
・植民地化され、支配国の言語を学習させられることで、現地の人々はグローバルな経済圏への参入が可能になった反面、現地の言語は死んでしまう。すなわち「力を賦与する侵犯」(enabling violation)。
・しかし、私たちはこのような傍観者的な判断を下していいものだろうか。
↑いや、ダメだ、とスピヴァクは主張したいはず。
p. 30
・『エレマコノン』の英訳において、フランス語原文で「プール語も、トゥクルール語も」となっていたのが、「フラン語も、トゥクルール語も」となっている。しかし、フラン語というのは、プール語とトゥクルール語の双方を含んでしまっている。
・この不可避的な翻訳による変化は、人口学上の国境の移動によって生じる、民族や言語の線引きの困難を示している。そして、これはポストモダンという時代におけるグローバリゼーション以前から存在する困難でもある。
p. 31
・このような翻訳の過程にある(以上の例であれば)フランス語によって形成され、英語によって撤回された「姿を消してしまった歴史」*3を、新しい比較文学は可視化させることができる。
・その歴史は、「わたしたちの想像力の真の仮想現実性が発揮されるのを待っている、さまざまな民族と言語の運動に充満した空間」である(!)。
↑よくわかんねーけど、なんかスゴそうなこといってる!
p. 32
・アメリカ中心のカルスタにとらわれるかぎり、この歴史を可視化することはできず、批評的とは呼べない動機付けモデルやお手軽な精神分析用語を駆使した分析にとどまってしまう。
↑再度、手厳しいカルスタ批判。
・このような分析では、『エレマコノン』は単なるビルドゥングスロマン(教養小説)として解釈されるほかないだろう。
・カルスタは未分化の「アフリカ」なるものを想定してしまっている(安易に本質主義的な「他者」としてみなしてしまう)。
p. 33
・スピヴァクは、比較文学と地域研究の協働を改めて主張する。カルスタが一つの言語に依存していて、現在主義的、自己愛的、精読に通じていないために母語の分裂すら理解できていない、と徹底的に批判。
・カルスタ路線では、文学作品を道徳教育の副教材としてわかりやすく解釈してしまう(固定的で既定された解釈をなぞるだけ)。
・スピヴァクは、クッツェー『夷狄を待ちながら』のいち場面を例に挙げて、カルスタがいずれ過ぎ去るいち流行ではなく、従来的な精読の手法を駆逐してしまう可能性を示唆する(入植者たちが侵略地域に定住したように!)。
p. 35
・比較文学と地域研究の結集・連携の可能性への抵抗の原因として、ディシプリンの変容にまつわる恐れに加えて、(研究の)品質管理が失われる恐れが考えられる。
・比較文学者メアリー・ルイーズ・プラットは、オーウェル『動物農場』における農場主のいなくなった農場の動物たちになぞらえて、その不安を表現している。
p. 36
・(アメリカ同時多発テロ事件を経た)現在(本書の出版は2003年)、農場主の帰還を待望する欲望が、反動的な「人間主義」、「普遍主義」、品質管理、テロリズムとの闘い(という名目でなされる監視・抑圧)への要求として現れている。
・これらの恐れからの脱出路を新しい比較文学に求め、スピヴァクはクッツェー『夷狄を待ちながら』の解釈に立ち戻る。
・この作品は、論理的と修辞的*4と呼びうるなにかを全面に押し出している。
・プロトコル(基礎的作法)にあたる論理的なくだりは、帝国主義者的経験が物語の枠内で歴史的に一般化可能なかたちで説明されている。
・対して、修辞的なくだりでは、登場人物の(帝国の軍人である)執政官は、論理的記述の主体という設定に基づくものではなく、夷狄の娘を「特異であると同時に責任感も感じさせる抱擁関係のなかで把握し」、「解読しようとする」存在として描写されている。
p. 37
・好色な執政官は娘と性的行為を果たそうと努力するが、失敗し、「(夷狄の)女性からは自分のしようとしている行為が相手には明らかでない」という一般論(←? 原文に当たる必要があるか。紋切り型の弁明みたいな意味だろうか)を導き出す。
・フロイトが「不気味なもの」について、「わたしたち自身が『外国語を話す者たち』である」と述べていたことをスピヴァクはここで想起する。
↑まったく意味がとれなかった。お手上げ!!自らを他者であり、読まれる客体として想像する、ということ?
p. 38
・この後、執政官は夷狄の囚人たちの処遇に口を挟み、投獄されて人間としての尊厳を失ってしまう。これをスピヴァクは「異議申し立ての驚嘆すべき例」と評する。
・執政官の解読の試みにおける「娘という、他のなにものにも還元しえない形象」という表現は矛盾的である(従来、形象はより抽象的な意味に還元可能なものであるから)。
・以降も、娘の眼に映る執政官という主体は、「守護天使」または「獲物を狙うカラス」として意味決定が不可能なように比喩的な形象がなされている。
・他者としての夷狄に知覚されるかぎりの、主体としての執政官の意味(どのようにみなされているか)は、まず第一に確定的に言明されておらず、次いで、(「なのだろうか」という表現によって)疑問形で、そして選択肢が複数で(守護天使なのか、獲物を狙うカラスなのか)与えられていることによって、無限定であり、決定不可能である。
p. 39
・文学は研究対象であるだけでなく、わたしたちの教師ともなる。執政官の探究は、わたしたちの欲望を整理しなおすきっかけを与えてくれる。
・「わたしたちの自身の決定不可能な意味は、他者の眼の代理を務めている還元不可能な形象のうちに宿っている」。
↑新しい比較文学が文学作品を通じて「ヨーロッパの他者」の視点を代理的に借り受けることによって、みずからを他者化する可能性がここでは提示されている。
メモ書き、終わり。読書会をして頂けた方に改めて感謝です!!!
*1:文化(大衆文化やおそらく伝統芸能も含む)を語ることで社会を分析する学問分野。1960年代にイギリスで創始。代表的な学者はスチュアート・ホールなど。
*2:「サバルタン」という概念は、イタリアのマルクス主義批評家アントニオ・グラムシが提唱したものである。
グラムシは、労働者や抑圧された主体には、支配体制と共犯関係にあるような意識と支配に抵抗する可能性を秘めた意識、二重のイデオロギーが作動しているとする。こうした「階級主体」内部の差異を探ろうとするグラムシは、なぜ人がイデオロギーを信じるようになるのかを問う上で「覇権」(ヘゲモニー)概念を定式化する。覇権とは、強制と同意を組み合わせることによって打ち立てられる権力である。「支配されることに『自ら喜んで』従属する主体を作り出すことを通じて、支配階級は支配を確立する。」
覇権を持たず社会的・政治的意識も未発達のため国家やイデオロギーに逆らうことができずに従属する者を、彼は「サバルタン」と呼ぶ。また、ラナジット・グーハを筆頭とするインドのサバルタン研究グループは、グラムシ理論を応用して、サバルタンを他の階級と同様に運動や叛乱を通して歴史を駆動する「主体」として捉えようとした。それに対してスピヴァクは、著書『サバルタンは語ることができるか』でサバルタンの置かれる状況、「主体」の問題を再考することで、さらにこの概念を深化させようと試みている。
*3:この「姿を消してしまった歴史」という語は、スピヴァクの著書『ポストコロニアル理性批判』の副題にも据えられている。
*4:この区別はスピヴァク「翻訳の政治学」でも登場するもので、スピヴァクは文学作品をロジック・レトリック・サイレンスの三層構造で捉えるらしい。