ものぐさ読書宣教会

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2023/2/4日記 ジェイムソン『政治的無意識』①

 

一年前にまるでわからず挫折したフレドリック・ジェイムソン(通称フレちゃん)『政治的無意識——社会的象徴行為としての物語』の読書会の機会を頂いたので、再挑戦していく。本書は、文化批評や物語論マルクス主義批評の方法論を駆使した、19世紀の小説に関する文芸批評である。

 

今回は「はじめに」(p. 9-16)についてのメモ

歴史化せよ

・スローガン「つねに歴史化せよ!」が掲げられ、対象を考察する方法(事物それ自体の歴史的起源をさぐる)と、主体を考察する方法(事物を理解しようとする際に用いられる概念なりカテゴリーの無形の歴史性をさぐる)、この二つの歴史化の手続きのうち、本書では後者をジェイムソンは選択する。

・テクスト解釈におけるジェイムソンの仮説

私たちは物それ自体としての新鮮なテクストに触れることは不可能であり、つねに既存の解釈や読みの習慣を通して、テクストは把握される。つまり、私たちの研究対象はテクストそのものではなく、解釈のほうとなる。

↑わかる。「理論に頼らず」読書するにしても、私たちはまっさらな解釈する主体ではありえない。

この方法にのっとるなら、私たちの研究対象はテクストそのものではなく、解釈のほうである。テクストと対決し、そのテクストを我がものにしようとするときにおこなわれる解釈、それが私たちの研究対象になる。解釈というものを、ここでは、本質的にアレゴリカルな行為、つまり、所与のテクストを特定のマスター・コードを参照して書き換える行為と捉えることにしよう。マスター・コードがいかなるものかをつきとめさえすれば、さまざまな解釈コードの評価に移れる。いいかえるなら、これによって、現在、アメリカの文学ならびに文化研究で広く通用している「方法」やアプローチが評価できるということだ。評価のとき比較対照のため対置されるのは、弁証法的、全体的な理解、まさにマルクス主義が理想とする了解法であり、 この対置を利用して、マルクス主義以外の解釈コードの構造的限界があばかれる。また、このとき、非マルクス主義的な解釈コードが研究対象を捏造するときの「範囲を限定するような」やり口、ならびに、おのが解釈だけ完璧で自己充足的なものとみるイリュージョンを可能にする「封じこめの戦略」に対しても、とりわけ多くの光があてられるだろう。(p. 10)

「ハンパな理論ならK.O. マルクス主義批評こそ最強」ってことですね。同意できるかはさておき、ワクワクする。

マルクス主義批評はほかの理論にとってかわるのではなく、包み込み、部分的有効性を割り振る。齟齬を生じない形でどんどん吸収して強くなる。いわゆる弁証法

『政治的無意識』は何の本ではないか

・政治文化は何をなすべきか、政治的・革命的美学を提出しない。

その理由として、

  1. ソ連において芸術活動に制限を加えたジダーノフ主義という悪しき前例
  2. 形式や言語におけるモダニズムや「革命」にマルクス主義が眩惑されたこと
  3. 新しい「世界システム」(ウォーラーステイン?)の誕生に古いマルクス主義の文化的パラダイムが対応できていないこと

を挙げる。しかし、本書の結論部にはひとつの空席が拵えており、「リアリズムとモダニズムのかなたにある、いまだ実現されざる、集団的で、脱中心化された未来の文化生産のために用意されている」という(アチー!)。

・伝統的な美学哲学の問題も扱わない。

(前略)そのような(消費社会やスペクタクル社会と呼ばれる、構造的特殊性をもった)社会で、つまりメッセージで飽和し、ありとあらゆる種類の「美的」体験が氾濫している社会で、古臭い美学哲学の諸問題を云々してもはじまらないのであって、むしろ、その種の問題はラディカルに歴史化して捉えなおしてこそ意義がある。そのあかつきには、当然予想されることだが、いにしえの美学哲学も実はすでに原型をとどめぬほど変質していたことが判明するだろう。(p.12 括弧内引用者)

文学史じゃない。

ジェイムソンによれば、文学史とは、「いま危機に瀕しているディスクール形式ないしジャンルのパラダイム的な仕事」である。「危機に瀕している」理由は、ヨーロッパ中心主義批判や異性愛男性中心主義批判による既存の史観や正典の問い直しがなされているからでいいのかな。たとえばこの本はサイードオリエンタリズム』(1978)の3年後に刊行されている。

そもそも伝統的な文学史とは、再現=表象的物語の下位集合であり、小説史において基本的典型としての信用をおとしはじめた「リアリズム」物語の一種なのだ。(p.13)

再現=表象ってよく出てくるけどわかってないので、誰か教えてください(メシおごります)。

マルクスブリュメール18日』に出てくるんだっけ?

ジェイムソンによれば、文学史について、アルチュセールの「対象と目されているものについて、完璧な真に迫った模像を丹念にこしらえるのではなく、その対象の『概念』の『生産』をこころがけること」という歴史記述一般に関してのテーゼを当てはめるべきだという。これはアウエルバッハ『ミメーシス』が批評実践の部分において試みたことだ。

↑なんとなく言ってることはわかるけど、わからない。『ミメーシス』春休み中に読むモチベがアガる。

『政治的無意識』は何の影響を受けて書かれたか

ノースロップ・フライの基本的貢献、グレマスのフォルマリズムと記号論を統合するコード化作業、キリスト教解釈学の遺産、フロイトの夢の論理の研究、レヴィ=ストロースの「未開の」物語行為と「野生の思考」の研究、そしてマルクス主義者ジョルジュ・ルカーチの業績。

・これらの仕事が一つにまとめられ、評価される。評価基準は、批評と解釈の問題、すなわち、イデオロギー、無意識と欲望、再現=表象、歴史、文化生産といった問題機制を、《物語》というすべてを支えるプロセスを中心に構造化しなおすことである。

ここで観念論哲学の速記法を使わせてもらうなら、私は《物語》を人間精神の中心的機能、あるいは《審級》と捉えている。このパースペクティヴは、伝統的な弁証法のコードに置き換えて定式化しなおしてもいい。 Darstellung の研究というように。この翻訳不可能なドイツ語が示す領域において、いまさかんに論議されている《再現=表象》 (representation) の諸問題が、 これとは対照的な 《現前化》 (presentation) の諸問題、つまり時間のなかを動く言語とエクリチュールの本質的に物語的・修辞的な運動の諸問題と、実りあるかたちで交錯するのである。(pp. 14-15)

↑ガーチでわからん。何? 再現=表象もそうだけど、現前化もわからん。一般的には「対象をそこに現に存在するものとする働き」のことで、ハイデガー形而上学の歴史が存在の意味が現前性に規定されているとするギリシア的存在理解に支配されてきたことを批判しているらしいが、ここではエクリチュールとか言ってるからデリダ『グラマトロジーについて』を読めってことだよな。

なぜ本書は解釈の有効性の問題を論じないのか

もし文献学的正確さという実証的概念だけが、唯一の選択肢となるのなら、私はむしろ、強力な誤読による脆弱な誤読を祝福する最近の挑発的な理論に、よろこんでくみしよう。中国の諺にいわく、斧を切り刻むなら、もう一本、斧を用意すべし。これを私たちの文脈に置き換えるなら、いまひとつの、より強力な解釈だけが、すでに居座っている解釈をくつがえし、実質的に、論破できるということになろうか。(p.15)

ジェイムソンは脱構築批評に好意的ってことか。

理論と文学史の対立を乗り越える第三の立場、それがマルクス主義批評

この二つの潮流――つまり理論と文学史は実にしばしば、西洋のアカデミックな思考のなかでは、絶対に相容れぬと思われてきたため、両者を乗り越える第三の立場が存在することを、最後に読者に思い出してもらっても、あながちむだではあるまい。その第三の立場とは、弁証法というかたちで理論の第一義性を肯定しつつ、同時にまた、理論とは<歴史>そのものの第一義性の認識にほかならぬことを知っ ている立場、すなわち、マルクス主義である。(p. 16)

最近「批評って理論抜きでもダメだし歴史抜きでもダメなんだよな〜」と思っていたので、このアジはマジでガチアツいっすね。これから読むのが楽しみ。

 

8ページ読みながらこれ書くのに3時間かかった。今日はこれでおしまい。