ものぐさ読書宣教会

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2023/2/5-6日記 ジェイムソン『政治的無意識』②

第一章「解釈について」を読み進める。

本書における理論篇。

歴史主義のジレンマ(pp,18-19)

ジェイムソンは、文学の政治的解釈は、解釈する方法の一つの選択肢ではなく、むしろ「あらゆる読解、あらゆる解釈の絶対的地平」を形成すると主張する。

しかし、たとえば「ダンテにおけるフィレンツェの政治的背景」や「ミルトンと教会分離派との関係」といった研究は、政治的解釈ではなくそれを可能にする前提条件に留まる。

このような過去の文化との考古学的な関係に満足している文学研究と同じく、現代の文学理論の多くの傾向も物足りないとジェイムソンは指弾する。

その傾向は、過去の特定のテクストを(ポスト)モダニズム的に書き換えるというものだ。

それらの書き換え作業において、「リアリズム的テクスト」、「指示的テクスト」が悪玉であり、モダニズム的に「開かれたテクスト」、《エクリチュール》が善玉である。

↑一読した通りにしか読めないテクストを(論者が恣意的に決定して)非難し、そうでない特殊な読みを誘発するテクストを称揚する、ということ?

そうなると、それらのテクストの境界線、認識論的断絶を設定する必要が出てくる。◯◯はリアリズム作家だが、××はモダニズム作家だという風に。

以下はジェイムソンの例示。

あなたはフローベールのなかにある「テクスト」的、現代的なものすべてをとりだそうと考えている。そうなるとバルザックには、啓蒙化されていない再現主義を代表してもらわないといけない。ところが、『S/Z』のバルトにならって、バルザックをフィリップ・ソルレスに等しい作家として、つまり彼のテクストを純然たるテクスト、《エクリチュール》として書き換えようと考えるなら、あなたは認識論的断絶をどこか別のところにずらさなければならない。

↑論者が認識論的断絶を恣意的に決定してるでしょ、ってことね。避けがたいアポリアに思えるが、どうすれば乗り越えられるのか。

好古趣味、現代性の投影、二つの選択肢のいずれも選べない状況、これこそ「ときには太古にまでさかのぼる過去の文化が残した遺物を、文化の面でも異なる現在の状況に役立てようとするときの問題点」、歴史主義の古きジレンマである。

歴史哲学へ(pp, 19-21)

真正の歴史哲学だけが、過去の特殊性や根源的差異を正しく認識し、過去の論争、情念、経験、そして闘争が現在のそれと連帯するだろうとジェイムソンは前提する。

無益ではないにしても、有効性を失っている歴史哲学は、キリスト教歴史主義、進歩史観的な実証主義と古典的リベラリズム、ヘルダーと結び付けられる民族主義である。

またしても、マルクス主義だけがこのジレンマを解決し、「過去の文化の本質的神秘について妥当な説明を私たちにあたえてくれる」という予告。

そしてジェイムソンの口説き文句が来ます↓

(前略)私たちは、とうの昔に死に絶えたもろもろの問題が自分に語りかけてくる声をつかのま聞くことができる。 部族社会の秩序が季節変化に応じて更新されること。〈三位一体〉説をめぐってたたかわされた激しい議論。望ましき 《ポリス》や世界帝国をめぐって、 おびただしいモデルが提案されたこと。あるいはもう少し近い時代を考慮すると、たとえば、十九世紀の民族国家における議会とジャーナリズムのあり方をめぐって、いまでは黴の生えた論争が熱心におこなわれたこと。こうした過去の出来事が、私たちにとってもいかに切実なものであるかを、理解することは可能だ。もし、過去の出来事が、単一の大きな集団的物語という統一体のなかで、語りなおされるならば。いいかえるなら、もし過去の出来事が、たとえどんなに偽装され象徴化された形式をおびていようとも、単一の根本的主題ーーマルクス主義ではこれを、〈必然性〉の国から〈自由〉の国をもぎとることと考えるーーを、みなひとしく分かちもつとみ なされるならば。そう、もし、過去の出来事のひとつひとつが、単一の広大な未完のプロットに欠かせないエピソードと捉えられるならばーー「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷、貴族と平民、君主と農奴、ギルドの親方と徒弟要するに抑圧する者と抑圧される者ーーとは、つねに対立し、と きには隠れた、ときには公然たる闘争を、たえまなくおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも、社会全体の革命的改造に終わるか、あるいは、あい戦う階級の共倒れに終わるかの、いずれかだった」。この途切れることなくつづいている物語のさまざまな痕跡を追跡すること。この原基的歴史の、抑圧され埋葬された現実を、テクストの表面に呼びもどしてやること。これをおこなうときに、大いに役立つもの、そしてなくてはならぬもの、 それが政治的無意識の原理である。(p. 21)

あ……

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アツすぎる。

マルクス主義者になっちゃう〜♡

 

……以上の観点に立てば、「政治的でない」テクストなど存在しない。

資本主義下の社会生活において例外なく存在する、「公的なものと私的なもの、社会的なものと心理的なもの、政治的なものと詩的なもの、歴史もしくは社会と『個人的な』もの、この両者のあいだに設けられた構造的・経験的・概念的断絶」(p. 22)は、私たちの個人的生のあり方と時間と変化に関する思考を歪め、社会からの避難所として自由の国が存在していると考えさせる。たとえば、テクストから得られる体験や、私的宗教の恍惚。

しかし、そのような自由の国は、〈必然性〉に支配され、拘束されている。そこから逃れるためには、究極的には(最後の分析では)すべてが政治的なのだと認知するしかない。

↑「自由の国」とか〈必然性〉が何を指しているのか気になる。マルクス資本論』からの引用らしいが。

〝in the last analysis〟(最後の分析)(p. 22)

文化的産物を社会的象徴行為としてあばく多様な道筋をさぐる。

ジェイムソンが、政治的無意識の存在を主張して提案するのはこのことである。

新しい解釈法構築のプロジェクト案のために、ジェイムソンは新しい解釈法がそれまでの解釈コードよりも優っていることを証明しなければならない。

今後続く実践篇で示されるのは、新たな解釈学構築のための実例である。

解釈への攻撃(pp, 23-25)

以上の予告は、「解釈を敵視する批評と理論の風土」に対する宣戦布告でもある。

現在のフランスにおけるポスト構造主義は論争のターゲットのひとつに、解釈学あるいは解釈行為を選んでいる。ポスト構造主義ニーチェという強力な権威をうしろだてに解釈操作をさまざまなものと同一視してきた。たとえば解釈とは歴史主義にほかならない。あるいは解釈は、弁証法、それもとりわけ不在と否定性を重くみる弁証法、全体化する思考の必然性と優位を説く弁証法と、同じ穴のムジナとみられている。私は、こうした同一視に反対はしない。解釈学もしくは解釈行為が、イデオロギー面でややもすると観念論に堕する可能性があることをこのように批判することは、私も大いに賛成だ。ただその種の批判が、まちがった相手に向けられている点、ゆるがせにできないのである。(p.23)

↑まず「ゆるがせにできない」は、相手を無視することはできないという意味らしい。

ここで言及されているニーチェ的な反解釈というのは、なんなのだろう。力への意志?わからない……。

解釈に対する攻撃の最近の例として、ドゥルーズガタリ(以後めんどいのでD&G)『アンチ・オイディプス』によるフロイト的解釈の批判がある。

その批判の理由は、「フロイト的解釈が、具体的で日常的な経験の、豊かでランダムで多様なあり方を、閉鎖的で戦略的で限界ある家族物語に書き換えてしまう」ことだ。

その家族物語には、神話、ギリシア悲劇、ファミリー・ロマンス、ラカンエディプス・コンプレックス構造主義版も含まれる。

批判されているのはアレゴリー的解釈システムであり、このシステムはひとつの物語系列に属するデータを範例となる物語に沿うよう書き換え、範例の物語をマスターコード、書き換えられる物語の究極的な隠れた意味もしくは無意識的な意味として提示する。

↑「ひとつの物語系列に属するデータ」が具体的に何なのかピンとこない。「書き換えられる物語」と同じものを指しているのか?

ジェイムソンは、D&Gが自分と同じく「日常生活や個人の空想-体験のなにものにもかえがたい政治的内容の特異性をあらためて主張し、すべてをひとしなみ純粋な主観的なものや、心的投影の地位に還元するやり口を批判して、政治的内容の特異性を救出しようとしている」(p.24)とする。

pp, 24-25にかけて『アンチ・オイディプス』からの長い引用。重要と思われる箇所を抜粋する。

「無意識がもたらすのは意味の問題ではなく、もっぱら用法の問題である。欲望によってもたらされる問いは、『それはなにを意味しているか?』という問いではなく、『それはどのように作用するか?』という問いである。」

「欲望の登場と、『それはなにを意味するか?』という問いかけの全般的信用失墜とは軸を一にしている。」

「まず、意味は用法以外のなにかであってはならない。また、正当な用法を決めることのできる内在的基準が、われわれの手の内にしっかり握られているときはじめて、意味を用法と同一視することが、確固たる原則と化すようでないといけない。また逆に、用法そのものを仮説でしかない意味に結びつけ、一種の超越をふたたび確立するようなもろもろの用法は、不当なものとしりぞけねばならない。」

↑うーん、わからん。ドゥルーズ学徒に聞きますかねえ。このような反解釈的方法をD&Gはスキゾ分析と呼ぶらしい。それも解釈法じゃね?と思ったら、同様の指摘をジェイムソンが原注一章☆7でしていた。また、反解釈の立場を打ち出すポスト構造主義の哲学者も新しい「方法」の必要性を痛感していて、それはフーコー「知の考古学」、デリダ「グラマトロジーについて」、ボードリヤール「象徴交換」などから伺えるとのこと。

しかし、にもかかわらず、いま私たちがよってたつ観点からみれば、ここで語られているような理想、つまりテクストの内在的な批評をめざし、テクストの諸部品を解体あるいは脱構築し、テクストの機能あるいは機能不全をあますところなく記述するという理想は、そのまますぐに、解釈行為の全面否定につながらない。いや、つながらないどころか、これは、新たな、もっと適切でもっと内在的な、それも反超越的な解釈モデルの要請へと、つながるものなのだ。新たな解釈モデルの構築、これが以下につづくページでの課題となるだろう。(p.25)

なるほど。一章導入部おしまい。

明後日読書会で一章を扱うので、かなりやばい。