ものぐさ読書宣教会

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2023/2/16日記 ジェイムソン『政治的無意識』④

更新がしばし滞ってしまった。合間にコンラッド『ロード・ジム』とソポクレス『アンティゴネー』、バトラー『アンティゴネーの主張』を読んだりしていた。前住んでいたシェアハウスの飲み会に顔を出したりもした。現状報告はこの程度にして、『政治的無意識』pp, 33-50の内容をザッとさらっていく。

聖書の解釈学(pp, 33-36)

マスター・ナラティブのはたらき、そして、アレゴリーの枠組みをさぐるため、フレドリック・ジェイムソンは聖書の解釈学へと踏み入っていく。

この解釈学の体系は、聖書の字句を四つのレベルに分けて解釈する、教父学と中世の伝統のなかで育まれた体系である。この体系が帯びているイデオロギー上の使命とは、古典時代(古代ギリシアおよび古代ローマが栄えた、おおむね紀元前8世紀から紀元6世紀ころまでを指す)の後期において、「旧約聖書新約聖書に同化吸収し、ユダヤ人の残したテクストと文化的遺産を、異教徒にも利用できるかたちに書き換える」ことであった。この新しいアレゴリー体系は、原テクスト(旧約聖書)を解体して象徴のかたまりへと作り変える*1ことはせず、原テクストの文字通りの意味を温存する。

この体系は、旧約聖書の歴史指示性と、比喩形象の体系としての利用価値を共存させる。

この観点は、歴史そのものを神の書物とみる概念によって保証される。神である<作者>がこっそり忍びこませた予言的メッセージの記号なり痕跡を求めて、私たちが旧約聖書を研究し、注釈を加えられるように。

その結果、キリストの生涯つまり新約聖書のテクストも、旧約聖書に秘められていた予言やお告げのしるしを成就するものとして捉えられる。新約聖書は、第二の、まさにアレゴリカルな、レベルをかたちづくり、このレベルにもとづく観点から、旧約聖書の書き換えがおこなわれる。そうなると、このアレゴリーは、テクストの複数の意味へ、絶えまなくつづく書き換えと重ね書きの過程へと、開くはたらきをするものだとわかる。(pp, 33-34)

キリストの生涯の観点から旧約聖書を解釈することは、テクストを閉じて偶発的・逸脱的な解釈を封じ込めるのではなく、むしろイデオロギー備給のしやすいようにテクストをお膳立てする。ここでの「イデオロギー」とは、「個人主体が、超個人的な諸現実——たとえば社会構造とか集団の論理によって支えられる<歴史>——と彼ないし彼女との生きた関係を、思い描いたり想像したりするとき、そのような思いこみを可能にする表層構造」というアルチュセール的意味で用いられている。

いま言及された例は、イスラエルの民という特定の集団の歴史の、キリストという特定の個人の歴史への書き換えである。この還元作用は、D&Gが批判した日常生活に対するフロイトエディプス・コンプレックス的還元と似ていなくもない。しかし、前者の還元は、そこからさらに新たな二つの解釈レベルが生まれる契機となる点において、後者のそれと異なっている。

その新たな解釈レベルとは、信者がテクストに自身を「挿入」できる、《道徳的》解釈と《秘儀的》解釈だという。難しいので、そのまま引用してみる。

たとえば、 第三と第四のレベルでは、イスラエルの民がエジプトに縛りつけられるという、まさに読んで字のごとくの歴史的事実は、未来の信者が罪と俗事に拘束される状態というよ うに書き換えられる。この束縛から個人個人が解放されるのは、彼ないし彼女が信仰に帰依したときである(イスラエルの民のエジプト脱出と、キリストの復活は、ともどもこの解放の比喩形象とみなされる)。だが、個人の魂の過程を示す第三のレベルは、それだけではまだじゅうぶんでない。いや、それどころか、第三のレベルはすかさず、第四の秘義的意味を生みおとす。この第四のレベルで、テクストに最後の書き換えがおこなわれ、人類全体の運命が暗示されるにいたる。エジプトは、長くてつらい煉獄の苦しみ、地上の歴史そのものを予示するようになる。ただキリストの再臨と最後の審判だけが、人間を歴史という名の煉獄から解放してくれるというわけだ。かくして、キリストの犠牲と個人の内面のドラマという迂路を経てふたたび、歴史的で集団的な次元へともどってきたことになる。とはいえ、特殊な世俗の民族の物語は、まったく同じところに回帰したわけではない。 物語は特定の地上の民の歴史物語から、宇宙の歴史、人類全体の運命にまつわる物語へと変貌を遂げる――これで四つのレベルの体系に最初から仕組まれていた、機能面とイデオロギー面双方にかかわる変貌が成就したことになる。この四つのレベルをまとめれば次ページの図のようになる。(p. 35)

四レベルあるいは四つの意味からなる旧約聖書の釈義学体系。

ジェイムソンは、この体系から解釈のジレンマに対する解決の糸口が得られるという。

思い出そう、それは私たちにあたかも社会的・政治的でないテクストが存在するかのように錯覚させる、「私的なるものと公的なるもの、心理的なものと社会的なもの、詩的なものと政治的なもの、この両者のあいだに横たわる」通約不可能性というジレンマである。

以上のキリスト教的枠組みの閉止=完結性から学ぶべきものがある。

たとえば、現代アメリカのイデオロギー風土で称揚されている「多元論」の立場から説かれる解釈の多様化プログラムは、解釈の結果を体系的に分節化したり全体化する作業をおろそかにしてい、「解釈相互の関係をめぐる問題、またとりわけ歴史の占める位置、物語生産とテクスト生産の究極的根拠に関する問題」が放置されている。

↑逆に釈義学の体系はそうではない、という理解でよいだろうか。

アルチュセールの表現型因果律批判、ふたたび(pp, 37-40)

先に述べたアルチュセールの表現型因果律批判の矛先は、ヘーゲル的観念論という直接の攻撃目標だけではなく、それを超えて神義論にも向かっていると考えられる。

神義論は、解釈のどれか一つを代表にしてそれ以外の解釈を吸収し、複数の解釈が結局はひとつの同一性を持つ、という解釈操作を経て生まれるものだからである。

また、これは上部構造の事象の原因を下部構造に還元できる、「経済を究極的な決定審級」とする伝統的マルクス主義への批判でもある。

この図式がアレゴリーの図式であることは、ルカーチのリアリズム論からも体得できる。

ルカーチの分析は、文化的テクストを社会の特徴や要素を示すアレゴリカルなモデルとして捉え、登場人物を「社会階級や階級衝突を示す比喩形象」として読み替える。

また、一般的な「イデオロギー分析」(ジェイムソンは階級的観点からおこなわれる国家構造の脱神秘化と呼び表す)も同様にアレゴリカルである。

↑うん、ライプニッツの「神義論」という用語以外は特にわかりにくい箇所はない。

さて、アルチュセールを批判した表現型因果律のジレンマ、これをジェイムソンはどう擁護するのか。

おれの理解だと、アルチュセールの批判点は表現型因果律が歴史からある要点だけを汲み出してきてそれをあたかも時代の「本質」であるかのように普遍化させてしまうことにあったはずだ。

このようなマスター・ナラティブから解釈しようとする習慣は、私たちの思考法そのものにしみついている。

↑たとえば、「このテクストはいかなるメッセージを発しているのか?」という問いがそうかもしれない。もしそのような還元が可能なら、そのテクストは無用の長物になってしまう。

アレゴリカルな物語がシニフィエとなりおおせ、このシニフィエが文学テクストや文化テクストにこびりついて離れない次元になっているとすれば、ひとえにそれは、私たちの集団的思考や、歴史と現実について私たちがいだくもろもろの空想の根幹をなす次元を、そのようなシニフィエが、反映しているからだ。いま次元と述べたものに対応するのは、むろん、テクストのなかにみられる時事問題への言及の網の目だけとはかぎらないのだが、ただそれにしても、この時事問題への言及なるものを、非歴史的にテクストを読もうとする読者や形式主義的にテクストを読もうとする読者は、ふつうやっきになって振りはらおうとするものだ――ミルトンやスウィフト、スペンサーやホーソンそのものを読んでいたいのに、どうでもいいような当時の出来事や政治的状況に対 する言及を作品のなかからほじくりだし、それを御親切にも教えてくれる、無味乾燥で耐えがたいほど杓子定規な脚注めいたたわごととして。もし現代の読者が、テクストとテクストが生まれた歴史的状況とのつながりに、うんざりしたり、それを醜聞としてうけとめたりするとすれば、これはまちがいなく、読者が自分自身の政治的無意識に抵抗している証左であり、しかもそれは、読者が(合衆国の場合は、一世代がこぞって)自分自身のなかにある歴史のテクストを読み解いたり書いたりすることを拒んでいる証左なのだ。たとえば、バルザックの 『老嬢』などは、資本主義時代の文学における政治的アレゴリーのなかで生じた意義深い変移を暗示している。 政治的なものへの直接的言及から成る、脚注-サブテクスト的古くさい網の目が、この作品では、物語のメカニズムそのものへと実質的に吸収されたといってよく、社会階級や政治体制への考察が、物語生産全体をめぐる 《野生の思考》そのものと化してゆく(詳しくは本書第三章を参照)。しかし、「表現型因果律」を研究することでこのようなことまで明らかにできるとすれば、この因果律をそのおおもとから摘み取ってしまうのは、私たち自身の文化的・実践的経験のなかにある歴史というテクストならびに政治的無意識を実質的に抑圧することにつながりはすまいか。だとすれば事は重大である。なにしろ、日増しに私的化するこの世界で、テクストにある政治的次元は、ほとんど聞きとれぬくらいにかぼそいものに変えられているのだから。(pp, 39-40)

↑おそらく、ここでのジェイムソンの擁護は逆説的なものである。表現型因果律を体現するルカーチ的な読み(もっと広くとれば歴史主義的な読みということになるだろうか?)を現代の読者が忌避しているのであれば、表現型因果律という思考法を放棄することは、結果的にその抑圧の作用を否認することに加担してしまう。

こうしてジェイムソンは、アルチュセールの批判を受け止めつつ、表現型因果律に基づく解釈にも意義を認める。しかし、アルチュセールが打ち出した「構造論的因果律」の概念はこれまでの解釈法とは違う画期的な解釈の可能性をもたらすのか、これは未だ重要な問題である。

ヘーゲルと共闘するアルチュセール(pp, 41-50)

アルチュセールの「階層」概念の独自性とは何か?

アルチュセールは生産様式を、狭義の経済とは同一視せず、むしろ構造全体だとみなす。アルチュセール構造主義はただひとつの構造しかない構造主義である。

つまり、そこでは、生産様式そのもの、あるいは社会的諸関係全体から成る共時的システムが、ただひとつの構造として存在している。また、そうであるがゆえに、この「構造」は不在の原因ともなる。なぜなら、構造は、一要素として経験によって把握できるかたちではどこにも現前していないし、全体のなかの一部、あるいは、あまたあるレベルのひとつでもなく、むしろ、さまざまなレベル間の諸関係から成る全システムにほかならないからである。(pp, 42-43)

以上のような認識から、「資本主義下で新しく図体の大きくなった国家装置を、『打破』すべきたんなる障害としてではなく、階級闘争と政治行動の拠点として注目するよう促す」ような、国家と国家装置の「準-自律性」を重要視するマルクス主義的立場が生じてくる。これを文化研究の問題に置き換えれば、テクストはなんらかのコンテクストや基盤のイデオロギー的反映なのか、それともコンテクストを否定するような自律性を備えているのか、というジレンマに私たちは直面しているということになる。

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自律と反映の両義性というジレンマ、その源は古典的弁証法の用語である《媒介》概念に見出せるとジェイムソンは指摘する。

媒介とは、「ある芸術作品の形式分析をその作品の社会的基盤と関係づけたり、政治体制の内的力学とその体制の経済基盤を関係づけたりすることを意味している」。

ジェイムソンによれば、アルチュセールはこの《媒介》概念を、ヘーゲル的な意味の表現型因果律、つまり、さまざまなレベルのあいだに象徴的同一性を拵えるものと同一視している。

しかし、ジェイムソンは、アルチュセールの構造的因果律もまた媒介の実践にほかならないのだ、と主張する。

アルチュセールが構造的因果律という考えを通して言いたかったのは、「各レベルが最終的には構造的に相互依存の関係にある」ということであり、そこで起きているのは、ひとつのレベルが別のレベルに反映される直接的な媒介ではなく、構造を経由する媒介である。アルチュセールの攻撃目標とは、「媒介概念そのものではなく、弁証法の伝統のなかで単純な直接性と呼びならわされてきたもの」であり、その文脈において彼はむしろ、「未熟な直接性や、内省から導きだされたのではない統一性をこしらえることを、ねばり強く批判しつづけた」ヘーゲルと共闘している(!)。

ジェイムソンのまとめ。

こう考えてよいなら、アルチュセールの構造的因果律は、そのおおもとにおいて、それが反対している「表現型因果律」と同様、媒介の実践にほかならぬということになる。二つの異なる現象に等しく使えるコードを、戦略的に、また部分的に案出することを媒介であると述べることは、二つの事例を語るとき同一のメッセージを用いよという命令を必ずしも意味しない。あるいはこうもいえるだろう。差異を数えあげることができるには、ある種の大きな一般的同一性が背景になければならない、と。この原初的な同一性の確立を、媒介はもくろむ。この原初的な同一性を背景にしたとき――ただし、そのときにかぎり部分的な同一性なり差異なりが、登録できるのである。(p. 49)

テクストをテクスト外の諸関係へと結びつけようと試みるタイプの文学批評にとって、これらの媒介の実践は欠かせないものである。

しかし、それはアルチュセールが批判した表現型因果律に陥ること、テクストを単なる反映の対象とみなすことではない。

たとえば、モダニズム(文学)が十九世紀後半の社会生活を見舞った物象化*2の反映物であるというだけでなく、「物象化に対する反逆であり、また、日常生活のレベルで日増しにつのる脱人間化傾向をつぐなうユートピア的代償に関係する象徴行為」でもあるということをジェイムソンは本書で示そうとしているのだ。

↑疲れてきたので、今回はここでおしまい。

次回、私たちはアルチュセールの批判の「ほんとうの力」を目撃することになる。

 

*1:合理主義的ヘレニズム解釈はこの姿勢を取った。西洋哲学史において、ヘレニズム時代、つまり前4世紀から前1世紀のギリシア哲学を指すヘレニズム哲学は、たしかに普遍主義、個人主義的な性格とともに語られることが多い。ジェイムソンによれば、ヘレニズム期の人々は、ホメロス叙事詩における原初的で多神教的文献群を、肉体の諸要素の内的闘争、もしくは美徳と悪徳の戦いに還元して解釈してしまった。

*2:生産物は他の生産物に値するという関係にたってはじめて商品という形態をとるが、商品はそれ自体として価値存在であるかのように意識される。それに伴って、自他の活動を社会的に有用なものとして関係づける人と人との関係が、物に内在的な性質から派生するように意識されてしまう。つまり、人と人との関係が物と物との関係として現れてしまうことを指す、らしい。