さいきん、パチンコとサッカー漬けで研究をさぼりまくってるのでひさびさにブログを書く。
本記事は、門脇俊介『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』序論、一章のメモである。主にこの本の要約や引用をしながらコメントを付す。
「理由の空間」とは何か?
序論では、本書におけるキータームである「理由の空間」という概念について説明がなされている。
ある信念(考えていること)を知識として主張するためには、知識の成立の理由(根拠)を挙げることが必要であり、また行為はなんらかの欲求と信念を理由とする出来事である。
「知識と行為というどちらの人間的活動も、理由の関係であることによって、正当化、評価、合理化といった、人が他者とともに構成する評価の空間の内部に位置することになる。(略)このような、知識と行為という理由の関係によって織られた、相互主観的な評価の空間を「理由の空間」と呼ぼう(pp. 39-40)。
「理由の空間」と「自然法則の空間」の区別
たとえば、「東大の教養学部は駒場にある」という信念と、この信念を正当化する理由となるいくつかの信念、「東大卒の父から聞いた」「父の言う事はおおむね正しい」などの信念との関係は、けして自然法則的な関係ではなく、根拠づけをする論理的関係、あるいはある信念をその他の暗黙の信念が支える全体論的意味の関係である(p.40)。
「理由の空間」の見方が意味するもの
「理由の空間」の見方は、人間の住まう歴史的・社会的空間を、各々の個や一定の生活形式を共有する集団による理由づけによって組織化されたものだとみなすわけだから、歴史的・社会的世界を自然に還元することが不可能だという診断を含んでいる。すなわち、歴史的・社会的世界が人間の意志をまったく超越したシステムをなし、そこではたらく法則が自然法則と類似のものであるというような発想を、否定しようとしているのである(p. 40)。
「理由の空間」の複数性
「理由の空間」は、記憶されてきた限りでの人間の社会的・歴史的世界に浸透し、この世界をそれとして成立させている普遍的な組織化であるとともに、その空間のあり方に関して多様な形を許容している。(略)あるいは、現代アメリカと日本社会とのあいだにも、異なった理由の空間の構成の仕方がある。(異なった理由の構成の仕方を)たとえば単純化していえば、自らの政治的行為を正当化するさいに、それが伝統的共同体のコンセンサスであることを主要な理由として挙げうる社会と、そうでない社会とのあいだの差異である(p. 41、 括弧内引用者)。
道徳的運の存在にもかかわらず、正当な道徳的非難は可能であると考えるとき、その理由(根拠)はなにか?
あるひとが選択できないような生まれや育ちがあるひとの道徳性に影響を与えるにもかかわらず、他者への道徳的非難が正当に可能だと考えるとき、その理由はどのようなものか。
門脇は、本書の一章でこの問いに対し、一つの暫定的な回答を与えている。私なりにまとめてみる。
私たちはさまざまな運の影響を被る存在でありながら、その運を意志的な行為のうちで再編成する存在として自らを理解している。つまり、単に運の影響を押し付けられるだけの存在としてはみなしていない。他者への道徳的非難が可能になるのは、他者をこのような運の再編成が可能な存在としてみなすときである。
対して、先ほど言及したように、他者を単に運の影響を押し付けられる存在としてみなすとき、他者への非難は、彼の人格に対する非難ではなく、宇宙のなかの不都合な出来事に対する単なる苦情となる(わざわざ「苦情」というタームを用いるということは、門脇はそのようなものを非難としてみなさないということだろう)。
しかし、意志的な運の再編成すらも与えられた素質という運に決定されているではないか、という反論が想定される(門脇が言及していない観点からいえば、ここでの「決定」という概念は吟味されるべきである。運それ自体は決定の主体ではありえないのだから、「運の決定」とはあくまで比喩的表現にすぎないように思われる)。
この反論に対する決定的な再反論はないが、自己欺瞞の可能性はあれ、私たちは「私はまったく自由な人間ではないし、しかしすべて運に制約されているのでもない」という自己理解をもっており、それ以外の自己理解を想像することができない、と考えている。他者への道徳的非難が正当に可能であると考えるとき、その理由の少なくとも一つとなっているのは、このような自己理解とそれにもとづく他者理解である。
以上のような考えから、門脇は、道徳を「他者の受苦と意志の物語を自ら構成することによってしか成立しない、想像力の産物」と表現している。
以上の議論へのコメント
門脇の論は、「私たちは完全に自由な存在ではないが、まったく運の影響を被るだけの存在でもないという自己理解を私たちは捨てられず、それ以外の理解の仕方を想像することができない」ということを持ち出す点において、「自然的態度」を持ち出すことによって、道徳的非難の実践を正当化するタイプの議論だといえる。
私の立場は、門脇のものとは少し異なる。
「私たちは完全に自由な存在ではないが、まったく運の影響を被るだけの存在でもないという自己理解を私たちは捨てられず、それ以外の理解の仕方を想像することができない」という門脇の議論で用いられている前提を受け入れておらず、ある種の宗教的、あるいは哲学的実践はそのような自己理解を捨てているのではないか? と考えているからだ。
私は、道徳的非難の実践によって更生や犯罪の抑止が可能になることがあり、それらが人間を含む動物の幸福の増大に寄与することから道徳的非難の実践は正当化される、と考える。
つまり、「自然的態度」ではなく、「帰結主義」による道徳的非難の実践の正当化を支持する。
しかし、このタイプの正当化も「意志的な運の再編成すらも与えられた素質という運に決定されているではないか? それにもかかわらず、あるひとが非難されることは、公正に適っていないのではないか」という反論に対する、決定的な再反論にならないことは重要である。






