本日の読書。
太平洋戦争を少年兵として戦い、戦艦武蔵の沈没から奇跡的に生還した渡辺清の論集。
- 少年兵における戦後史の落丁(1960)
- 天皇裕仁氏への公開状(1961)
- 帰還農民兵士の立場から(1962)
- 北緯十二度五〇分東経一二二度三五分水深一三〇〇米の海底に(1966)
- 「内なる天皇制」呪縛の自己史(1980)
- 〝戦前志向〟への告発——山中恒著「ボクラ小国民」(1980)
- 吉田満・安田武との対談「戦艦大和の士官と武蔵の兵 戦争体験と戦後倫理をめぐって」(1962)
- 安田武との対談「天皇の訪欧をめぐって」(1971)
- インタビュー「戦争と私 体験から想像力へ」(1979)
- 加納実紀代との対談「戦争の中の日常性 男と女の戦争責任を考える」(1979)
- 粟屋憲太郎との対談「海軍少年兵の敗戦体験」(1980)
少年兵における戦後史の落丁(1960)
渡辺が少年兵に志願した理由として、「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ」という出世意識、「国を守り天皇陛下に尽せるのは兵隊になりゃ偉くなれるんだ」という忠誠意識、「その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ」という価値意識を挙げているのが興味深かった。
天皇裕仁氏への公開状(1961)
昭和天皇の戦争責任を追及する文章。
レイテ沖海戦における戦友の死のことを回想する箇所で、「天皇陛下のためならば、なんでいのちが惜しかろう」という小学校で歌っていた唱歌「露営の歌」の文句を最後まで信じていた、と戦友のことを語っているのが印象的だった。
帰還農民兵士の立場から(1962)
岩手県農村文化懇談会が編纂した『戦没農民兵士の手紙』を読んだ感想からはじまり、「これまでの戦争責任の問題は、主として知識人の問題として提起されてきた」として、自身を含む農民兵士の戦争責任を考える論考。
同書のまえがきに農民兵士は「善良で健康な村の若者たち」だったと書かれてい
たことは、「侮辱されたよりもこたえた」 (p. 78)と渡辺は述べる。渡辺によれば、「軍隊での僕および僕らはそんな『善良な兵士』ではなかった」。同書のある兵士は、手紙のなかで妻を思いやりながら、二、三十人を皆殺しにしたと無感動に書いているという。
「僕はとにかく本書によって、あらためて自分の恥部に正面から向き合わされた」と渡辺は書いており、『戦没農民兵士の手紙』を読みたくなった。
また、歴史学者ハーバート・ノーマンの「日本における兵士と農民」への言及があり、渡辺は勉強家だなあと思った。
北緯十二度五〇分東経一二二度三五分水深一三〇〇米の海底に(1966)
渡辺と共に両親への遺書を書いた戦友であり、戦艦武蔵の沈没で亡くなった「鈴木」に宛てて書かれた文章。戦友を助けられなかったことを後悔し、「俺はやっぱり薄情で駄目な男だった」と述べたあと、渡辺は以下のように書いている。
そして俺は今にして思うのだ。人間がギリギリの極限状況に追いつめられたとき、一体誰がその手をさしのべてくれるかと。それは誰か? 友人はむろんのこと、兄弟だってあぶない。恋人だってあぶない。妻だってあぶない。ひょっとすると母親だって怪しい。自分をみとってくれるものは、正に自分以外ないのではないか。俺はあの体験を通して、それまでそれと知らずに過してきた人間の底深いエゴの深淵を、己れの中にもはっきりと見とどけてしまった。そしてそれを見とどけてしまった俺は、今日はやりの「連帯」とか「話合い」とかいう「組織の有効性」をいくら説かれても、白々しさだけが鼻について、そんなものなんて、くそくらえとしか思えないのだ。
こうして結局俺たちの班だけでも若い兵隊六人のうち、生き残ったのは俺一人だった。しかし、あれから俺がどうやって生きてきたか、それをいま俺はここに書く気がしない。死んだお前をまえにして、どうしてそんなことが書けよう。ただ、俺がここでお前に言えることは、俺は死におくれたうしろめたさをこの二十余年抱きつづけてきたということだ。俺もあの時死ぬべきであった。(p. 88)
「内なる天皇制」呪縛の自己史(1980)
戦後生まれの世代に向けて自身の戦争体験や天皇観について語った文章。
自身が皇国少年になってしまった原因の一つとして、「郷土部隊が上海の激戦地に廻されたこともあって、当時村には戦死者が続出し私たち小学生はしょっちゅう村道に並んでその遺骨を出迎えていましたが、私はそのたびに日本民族が興亡浮沈の瀬戸際に立っているような危機感に陥り、子ども心にもなんだかじっとしていられない気持」になった、というエピソードが挙げられていた。
〝戦前志向〟への告発——山中恒著「ボクラ小国民」(1980)
児童文学作家の山中恒の「ボクラ小国民」の書評。
「典型的な皇国少年に練磨育成されていく」著者の体験が克明に記録された著作であり、「ボクラはいかにして天皇制ファシストに純粋培養されたのか」という問いに著者が「全身の重みをかけて執着」した成果である、と絶賛されていて気になった。
次の二つは対談。気になった渡辺の発言をメモしておく。ここからまとめる体力が尽きてきたので引用集。
吉田満・安田武との対談「戦艦大和の士官と武蔵の兵 戦争体験と戦後倫理をめぐって」(1962)
それからまもなく「武蔵」は爆発を起こして沈みました。七時三十五分でした。僕はじたばたしているうちに渦に巻きこまれ海中に引きずりこまれた。そのときは、「ああ、もうおしまいだ、でもこれでいいんだ……」というなにか妙に静かな気持ちでした。(p. 149)
ぼくはね、現在自分がこうやって生きていることに、なんか罪のようなものを感じますね。 たえず、そのことが意識の中にあるわけです。それは、ひとつには戦後が、語るすべのない「死者の執念」を、ちっとも生かして受けついでいないということにも関係があると思います。あの八月十五日には、この国を新しくつくりかえていくいろんな原理的なモーメントが、非常に凝縮した形であったと思う。それをいつのまにか喰いちらかしてしまって、そうしておいて「戦争とは一体なんだったのか」という問いを繰返しているわけです。なんだかたまらなくむなしいですね。むろん僕も戦争体験は思想化しなくちゃならないと思っているのですが、一方ではそういう罪の意識とむなしさが雑居しているわけなんで、なんかこうやりきれないですね。(p. 157)
安田武との対談「天皇の訪欧をめぐって」(1971)
今の話ですけれど、結局僕もね、(ヨーロッパを旅行した)天皇の車に、オランダで卵をぶっつけられたとか、イギリ スでお手植の杉が引っこぬかれたとか、オランダで八・一五委員会ができていて、「天皇が来たら抑留しろ」というような声が、かなり上がっていたという報道を見ていて、やはり僕たち日本人は、戦後二十六年、天皇の戦争責任ということについて、本当に四つに取組んでいなかった。自分の戦争責任を追求しながら、同時に天皇の戦争責任も正面から追求するという構えがなかった。あっても個人的なもので、大きな力としては噴き上がらなかった。それで今度のオランダとかイギリスとかの反応をみていて、向うはやっぱり日本人と違うなと思いましたね。(pp, 162-163、括弧内引用者)
1971年にこんな出来事があったのか。勉強になる。
インタビュー「戦争と私 体験から想像力へ」(1979)
血で汚れていることの自覚
はじめの『海の城——海軍少年兵の手記』(一九六九年)を書き上げるまでにはそれから二十四年の時間がぼくには必要でした。無念を晴らすにしてはたいへん気の長い話ですが、前半の三分の一ぐらいの下書きは病院のベッ ドの上で寝ながら書きました。その過程でぼくがいちばん心にひっかかったのは、自分がなぜすすんで志願までして戦争にいったかということですね。戦争にいくというのは、ごく簡単にいってしまえば、人殺しにいくことですよね。殺す側と殺される側があって、兵隊になればそのどちらかにいやでもおうでもつかなければならないわけで、そういうごくあたりまえのことに、当時、ぼくは気がついていなかった。その点ではまったくあきめくらだったわけです。
ぼくは配置が大砲でしたから、海戦のたびに大砲を射った。たしかに射ったわけだから、当然ぼくの射った弾に当たって死んだアメリカ兵もいただろうと思う。そうすると、じかではないから目にみえないにしてもぼくの手はやっぱり血で汚れているし、汚さざるを得なかったということ、そういう自覚はあらためて、人間としてたえがたかったですね。(pp, 179-180)
・優れた戦争文学として、野間宏『真空地帯』、大岡昇平『俘虜記』、梅崎春生、島尾敏雄、原民喜の作品が挙げられている。
軍歌の戦争責任
それからぼくは、これは片手落ちだと思うんですけれども、当時の歌謡曲とか、軍歌の戦争責任、この問題をだれかもっと本格的にやらないといけないという気がするんですよ。やっているのは児童文学者の山中恒さんぐらいでしょう。あの『ボクラ少国民』の作者ね。当時のものをコロンビアなんかで収録したりしてよくやっていますね。ぼくらのころは、「太平洋行進曲」とか、「父よあなたは強 かった」とか、 軍歌なり、あるいは戦時歌謡というんですか、そういう歌が戦争のイメージづくりに果した役割は大きかったですね。なぜ大きいかというと、日本人というのは、情緒的な面で非常に弱いでしょう。たとえばオリンピックに、日の丸の旗があがって「君が代」が吹奏されると、大さわぎ してそこで思考停止するというような、そういう弱さがある。そういう意味でぼくは、戦時歌謡や軍歌の果たした役割は大きいんじゃないかと思う。戦時歌謡や軍歌にもし人格があれば、まずA級戦犯ものだね。(p. 189)
あのとき、やっぱり死んだほうがよかったな
だからぼくは時として、酒なんか飲みながら、こんなことになるなら、戦後、ぼくはあまりたいしたこともしなかったし、長い間病気して悶々としていましたから“あのとき、やっぱり死んだほうが よかったな”というような気持が、いつも影のようについてまわってるわけです。戦友の位牌片手の 人生という思いがいつもあって底まで突きぬけるようなスカッと澄んだ気持は復員後ついぞ味ったことはないですね。めめしい男なんだな、ぼくは・・・・・・。
そんなふうですから日常の生活の中でいろいろいやなことやつらいことがあっても、結局、この先には死ってことがあるんだ、そこに救いがあるんだなということで、同僚が死んだことと自分がいまこうして生きてることの負い目みたいなものが、いつもあやもつれてだぶっているんですよ。(p. 198)
靖国神社の問題について
だけどもあの四年間というのは、ぼくにとってたいへんな四年間であって、戦後の三十年というのは、いわば影のようなものです。ぼくは傾いて沈んでいく武蔵の旗ざおにしがみついて“お母さん、お母さん“と叫んでいた同僚たちを、どうすることもできなかったし、ある場合には見殺しにして、 自分だけおめおめと生きてきたんだということで、その点で、ぼくは死者を語る資格はありません。だから靖国神社の問題についてぼくが非常に怒っているのは、あれは死者を政治の手段にして死者をもう一度殺すということでしょう。それで怒っているんですよ。ぼくは、死者は死者として語らしめよということで、生者がみだりに死者を語っちゃいけないと思うんです。たしかに死者は、生者の中にしか生きられないわけで、死者はひっそりと自分の心の中に、自分の日常の中に生かすべきであって、それをことごとしくああいうふうな形で、A級戦犯合祀だの、国のために死んだのだから祀ってどこが悪いなんていうのは言語道断ですよ。(p. 199)
加納実紀代との対談「戦争の中の日常性 男と女の戦争責任を考える」(1979)
この対談は女性史家の加納実紀代の言っていることの方が面白かった。
加納 (前略)最近になって、戦時体制は、女性解放にプラスだったというような意見が女性史研究家あたりからボツボッ出されていて——つまり、戦時体制は女を家から解放した、社会参加を促した、だから女性解放にプラスだったということですね。たしかにかつて、女にとって家制度の桎梏は大変なものだったし、戦時中の軍需工場動員や、国防婦人会への参加、女を家から解放して社会参加させたという効果はあったと思う。だから、婦人運動家たちは、積極的に戦時体制に協力したのだと思うんですが、でも侵略戦争のための戦時体制への社会参加が本当に女性解放といえるのか、ということですね。そしてそれは、いま日本は直接的な軍事侵略はやっていませんけどそっくりそのままあるんじゃないか、と。そうした中での女性解放や女の自立とはどういうことなのかということを、戦時下の女たちを見ることで明らかにできるんじゃないかということなんです。(p. 213)
粟屋憲太郎との対談「海軍少年兵の敗戦体験」(1980)
歴史学者の粟屋憲太郎との対談。粟屋がかなり聞き手に回っていて、渡辺の生い立ちや経歴について話している前半部が参考になりそうだった。







