人生ナメたろうのゲーム日記

好きな本とゲームを布教するためのブログ。

2026/7/13  道徳的運の存在にもかかわらず、正当な道徳的非難は可能であると考えるとき、その根拠はなにか?——門脇俊介『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』序論、一章メモ

さいきん、パチンコとサッカー漬けで研究をさぼりまくってるのでひさびさにブログを書く。

本記事は、門脇俊介『戦争と差別について哲学は何を言えるのか』序論、一章のメモである。主にこの本の要約や引用をしながらコメントを付す。

「理由の空間」とは何か?

序論では、本書におけるキータームである「理由の空間」という概念について説明がなされている。

ある信念(考えていること)を知識として主張するためには、知識の成立の理由(根拠)を挙げることが必要であり、また行為はなんらかの欲求と信念を理由とする出来事である。

「知識と行為というどちらの人間的活動も、理由の関係であることによって、正当化、評価、合理化といった、人が他者とともに構成する評価の空間の内部に位置することになる。(略)このような、知識と行為という理由の関係によって織られた、相互主観的な評価の空間を「理由の空間」と呼ぼう(pp. 39-40)。

「理由の空間」と「自然法則の空間」の区別

たとえば、「東大の教養学部は駒場にある」という信念と、この信念を正当化する理由となるいくつかの信念、「東大卒の父から聞いた」「父の言う事はおおむね正しい」などの信念との関係は、けして自然法則的な関係ではなく、根拠づけをする論理的関係、あるいはある信念をその他の暗黙の信念が支える全体論的意味の関係である(p.40)。

「理由の空間」の見方が意味するもの

「理由の空間」の見方は、人間の住まう歴史的・社会的空間を、各々の個や一定の生活形式を共有する集団による理由づけによって組織化されたものだとみなすわけだから、歴史的・社会的世界を自然に還元することが不可能だという診断を含んでいる。すなわち、歴史的・社会的世界が人間の意志をまったく超越したシステムをなし、そこではたらく法則が自然法則と類似のものであるというような発想を、否定しようとしているのである(p. 40)。

「理由の空間」の複数性

「理由の空間」は、記憶されてきた限りでの人間の社会的・歴史的世界に浸透し、この世界をそれとして成立させている普遍的な組織化であるとともに、その空間のあり方に関して多様な形を許容している。(略)あるいは、現代アメリカと日本社会とのあいだにも、異なった理由の空間の構成の仕方がある。(異なった理由の構成の仕方を)たとえば単純化していえば、自らの政治的行為を正当化するさいに、それが伝統的共同体のコンセンサスであることを主要な理由として挙げうる社会と、そうでない社会とのあいだの差異である(p. 41、 括弧内引用者)。

道徳的運の存在にもかかわらず、正当な道徳的非難は可能であると考えるとき、その理由(根拠)はなにか?

あるひとが選択できないような生まれや育ちがあるひとの道徳性に影響を与えるにもかかわらず、他者への道徳的非難が正当に可能だと考えるとき、その理由はどのようなものか。

門脇は、本書の一章でこの問いに対し、一つの暫定的な回答を与えている。私なりにまとめてみる。

私たちはさまざまな運の影響を被る存在でありながら、その運を意志的な行為のうちで再編成する存在として自らを理解している。つまり、単に運の影響を押し付けられるだけの存在としてはみなしていない。他者への道徳的非難が可能になるのは、他者をこのような運の再編成が可能な存在としてみなすときである。

対して、先ほど言及したように、他者を単に運の影響を押し付けられる存在としてみなすとき、他者への非難は、彼の人格に対する非難ではなく、宇宙のなかの不都合な出来事に対する単なる苦情となる(わざわざ「苦情」というタームを用いるということは、門脇はそのようなものを非難としてみなさないということだろう)。

しかし、意志的な運の再編成すらも与えられた素質という運に決定されているではないか、という反論が想定される(門脇が言及していない観点からいえば、ここでの「決定」という概念は吟味されるべきである。運それ自体は決定の主体ではありえないのだから、「運の決定」とはあくまで比喩的表現にすぎないように思われる)。

この反論に対する決定的な再反論はないが、自己欺瞞の可能性はあれ、私たちは「私はまったく自由な人間ではないし、しかしすべて運に制約されているのでもない」という自己理解をもっており、それ以外の自己理解を想像することができない、と考えている。他者への道徳的非難が正当に可能であると考えるとき、その理由の少なくとも一つとなっているのは、このような自己理解とそれにもとづく他者理解である。

以上のような考えから、門脇は、道徳を「他者の受苦と意志の物語を自ら構成することによってしか成立しない、想像力の産物」と表現している。

以上の議論へのコメント

門脇の論は、「私たちは完全に自由な存在ではないが、まったく運の影響を被るだけの存在でもないという自己理解を私たちは捨てられず、それ以外の理解の仕方を想像することができない」ということを持ち出す点において、「自然的態度」を持ち出すことによって、道徳的非難の実践を正当化するタイプの議論だといえる。

私の立場は、門脇のものとは少し異なる。

「私たちは完全に自由な存在ではないが、まったく運の影響を被るだけの存在でもないという自己理解を私たちは捨てられず、それ以外の理解の仕方を想像することができない」という門脇の議論で用いられている前提を受け入れておらず、ある種の宗教的、あるいは哲学的実践はそのような自己理解を捨てているのではないか? と考えているからだ。

私は、道徳的非難の実践によって更生や犯罪の抑止が可能になることがあり、それらが人間を含む動物の幸福の増大に寄与することから道徳的非難の実践は正当化される、と考える。

つまり、「自然的態度」ではなく、「帰結主義」による道徳的非難の実践の正当化を支持する。

しかし、このタイプの正当化も「意志的な運の再編成すらも与えられた素質という運に決定されているではないか? それにもかかわらず、あるひとが非難されることは、公正に適っていないのではないか」という反論に対する、決定的な再反論にならないことは重要である。

 

2026/5/18 文学研究論文よむ part1〜10

最近よんだ文学研究論文のまとめです。

 

1. 三上桜「潜在する逸脱の可能性ーー吉行淳之介「寝台の舟」をめぐって」

吉行淳之介作品(の男性主人公)は異性愛規範を無批判に内在化しており、女性抑圧的だと批判される傾向にあるが、「寝台の舟」では異性愛規範やそれに基づく男性優位の権力関係から逃れる性的関係が描かれている、と主張する論文。

先行文献として吉行作品の文学研究のみならず、トランスジェンダーの人々や異性装者、女学校という機関が戦後日本社会においてどのように捉えられていたかを分析した社会学の文献を引いているのがよかった。

現在だと明らかに異性愛者のトランス女性だと解釈されるような登場人物が1992年出版の上野千鶴子ら『男流文学論』だと「同性愛者の男性」と解釈されている、という指摘が意外だった。

 

2. 阿部幸大「トマス・ピンチョン『重力の虹におけるエコロジカル・ナショナリズム』」

『重力の虹』終盤において主人公のスロースロップがアホウドリに変身して戦後ドイツじゅうに散逸するというエピソードが、グローバル化時代に人々を政治的に結集させるための新たな組織論を提示している、と主張する論文。具体的には、各イシューごとに結集し、散逸するという「その場限り性」が推奨されている。また、作中のアイデンティティ・ポリティクスを目的とした政治組織が批判されているが、「富の再分配の必要性を取り逃す」というありきたりな批判しかされていないのが気になった(そもそも、再分配と承認が客観的に追求されるべき目標だと認めたとして、政府でもない政治組織が片方のみを追求してはならない理由がわからない)。
後年の著者が「黒人コミュニティのレイシャル・ポリティクスよりも白人主人公の柔軟な政治のほうが偉い」と主張する「白人男性エリート作家の難解な小説を高級な理論で分析して足れりとする、日本人男性文学研究者のダメなところが詰まった、典型的な駄文」と自己批評しているのもわからなくはない論文だった。

 

3. 阿部幸大「ノラ・オッジャ・ケラー『慰安婦』におけるコリアン・アメリカン二世の応答可能性」

「従軍慰安婦」問題が世界的に認知されるようになったのは1990年代に至ってからであり、アメリカは主に冷戦構造を理由に元「慰安婦」たちを沈黙させることに部分的に加担してきた。ケラー『慰安婦』は、登場人物であるコリアン・アメリカ二世のベッカがコリアンである元「慰安婦」の母親に対して取る態度のうちに、こうしたアメリカによるネオコロニアルな暴力を描きこんでいる、と主張する論文。
1990年代に「慰安婦」問題の補償運動の場がアジア・太平洋諸島からアメリカの司法・裁判制度へと移行した現象は、「トランスボーダー・リドレス・カルチャー」と呼ばれ、どのような行為が補償に値する暴力かをアメリカの司法が判断するために、「被害性の歴史の政治的・文化的盗用」として批判され得る。日米文化研究者の米山リサによる以上の議論が引用されており、印象に残った。

4. 水上文「我ら拷問者 松浦理英子論・試論」

松浦理英子作品に多く登場するマゾヒストの語り手は、読者をジェンダー/セクシュアリティをめぐる一連の規範の解除へと「教育」する、と主張する論考。
松浦作品の主人公が奇矯なカテゴリーを用いて世界を解釈すること、松浦作品が新たな関係性の絶え間ない発明であることに着目した部分が面白かった。
試論と銘打たれているように、論考からアーギュメントを取り出すのが難しく感じた。

5. 加藤夢三『並行世界の存在論 現代日本文学への招待』

論文じゃなくて著作。連載も追ってたけど面白くて一気読み。

並行世界をめぐる物語の多くは、この現実世界の唯一性・特権性を称揚する倫理的な傾向を帯びがちであり、ゆえに既存の秩序に追従するものだとしばしば論じられてきた。しかし、ゼロ年代以降の現代文学におけるいくつかの作品は、現実世界の現実性を再確認するために導入されるのではなく、現実世界に取って代わるような確からしさを伴って描かれる並行世界である「存在論的並行世界」を描いている。この質的変革を詳らかにし、こうした作品群が「現実世界ではない可能世界にこそ現実性を感じたり、自身にとって可能世界にすぎないような世界も実在しているのだと感じる」思考や感性を肯定している、と主張する文学研究書。
哲学者のデイヴィッド・ルイスは、「現実世界とは、『現実』という語が発せられている可能世界のことである」という現実の現実性についての「指標理論」(indxical theory)を唱え、この世界に生きる私たちにとってこの世界は現実世界なのであり、端的に現実世界なのではないと主張したが、ルイスにはその主張を下支えする「数多の可能世界が実在している」という直観があったのではないかと言われることがある。このような直観を著者も持っているのではと考えたくなるような、独自の問題設定によって書かれた好著だった。

6. 石原千秋「『坊つちゃん』の山の手」

著書『反転する漱石』に収録。

「同僚の教師とは協調せず、かと言って生徒に愛情を注ぐわけでもなく、着いた早々帰ることばかり考えているような」無責任な男である<坊つちゃん>に対して、読者はなぜ共感を覚えてしまうのか、という問いを端緒として、 <坊つちゃん>による語りは、女中である清の生き方と死に方を美しく語るという意図に規定されている、と主張する論文。
「読者がテクストに対して取るべき態度をテクストの冒頭が決定し、そのテクストの現実世界における意味づけをテクストの終わりが決定する」というボリス・ウスペンスキーの議論を参照し、『坊つちゃん』というテクストの冒頭と終わりに位置している女中の清の物語に着目する。時代のコンテクストに焦点を当てれば、<坊つちゃん>と清の態度には立身出世をよしとする<山の手志向>が見出せるのだが、<坊つちゃん>の語りが自身の「無鉄砲」や清の「非常識」ばかりを強調するために、時代のコンテクストが見えづらくなっている。実は清は<坊つちゃん>に社会的上昇の期待を託しているのだが、<坊つちゃん>が自身の将来をあらかじめ語り、失敗者として表象することで、清の<坊つちゃん>への期待は不可解な無償の愛のように見える。このように、テクストの冒頭で描写される清の<坊つちゃん>への態度が無償の愛のように見えるために、読者は無意識にその態度を模倣し、<坊つちゃん>に共感を覚えるのだ、という主張によって論文冒頭の問いに答えが与えられている。
また、論文の最終節において、テクストの最後に位置する清の最期の意味づけに焦点が当てられ、<坊つちゃん>の語りが自身の「無鉄砲」や清の「非常識」ばかりを強調していたのは、清の社会的上昇への期待を仄めかす程度に語ることによって、清の生き方を打算的でないものとして、死に方を期待を諦めて運命を感受するものとして美しく語る意図によるものだ、という主張がなされている。

 

7. 國部友弘「抑圧された裏切り——太宰治『走れメロス』論」

メロスと王の関係を<信実/不信>や<正義/悪>ではなく、何を意識して行為しているかという観点から<神の視線/群衆の視線>、精神分析的な観点から <無意識的悪/意識的悪>という二項対立で読み解く論文。
「金品ではなく命を狙ってくる山賊」や「ああ、神々も照覧あれ!」というメロスの台詞、「メロスの帰還の場面でもディオニスが『暴君ディオニス』と呼ばれていること」といった読み飛ばしがちな箇所を真面目に受け取って分析する所作がまさにテクスト論といった感じで面白かった。
マラブー、フーコー、ネーゲル、ウィリアムズと道具立てが豪華。ネーゲルやウィリアムズといった分析哲学者の議論が引用されていてびっくりした。

8. 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのかー詩人・石原吉郎のみちなりー』

これも著作。石原吉郎の伝記を中心に、彼の詩やエッセイを紹介するもの。

石原吉郎のシベリア・エッセイ集と、哲学者の鶴見俊輔が石原吉郎にふれているという『家の神』や『私の地平線の上に』、ロシア文学者の内村剛介の『失語と断念 石原吉郎論』が気になった。

 

9. 前田塁「百年の狗独——松浦理英子『犬身』をめぐって」

犬に変身した主人公が「物語への介入を観察のほかは極度に制限された語り手」であることに着目し、主人公の語りがあくまで観察と観察に基づく推測でしかないことに注意を促して、大半の読者が確定した事実だと思わされることがあくまで推測でしかないことを強調する論考。
「言葉を運用することがいかに空しい交換手段でしかなく、しかし言葉とともにしか私(たち)語り語られることができないーーそのような答えはむろん、始まりからとうに決まっていたのかもしれない。ただ、それをひとつひとつ絶望とともに確かめる作業こそが『犬身』だったのだ」というメインの主張こそありきたりかもしれないが、大半の読者が確定した事実だと思うことが実は語り手の推測を信頼しきっているが故の所産にすぎないのだ、と不確定性を強調する読みに驚かされた。

10. 斎藤美奈子「『犬身』、闘わない犬の物語」

『犬身』を英雄譚である「名犬物語」と対比される「闘わない犬の物語」として位置づける批評。

2026/2/5 桜庭一樹『少女には向かない職業』感想

 

最近、桐野夏生『OUT』、角田光代『紙の月』、桜庭一樹少女には向かない職業』と、立て続けに主人公が犯罪を犯す系の小説を読んでいる(そういえば三島由紀夫金閣寺』も最近読んだ)。読んでいる最中の緊張感という観点でいえば、この系統の物語が最も優れているのではないかと思う。

以降各作品のネタバレにはなるが、各主人公の犯行の動機としては、散財することの解放感、年下の不倫相手の期待を裏切ることへの恐れと虚栄心で横領を重ねていく『紙の月』があまり共感できず、家族とのディスコミュニケーションと貧困による「どこにもいけない」閉塞感から友人の殺人の隠蔽に手を貸す『OUT』と、身体を壊して酒浸りになり自分のバイト代に手を出す義父を殺してしまう『少女には向かない職業』は納得度が高かった。こう書き出してみると、助けを求められてなし崩し的に犯罪に加担してしまう『OUT』と比較して『少女には向かない〜』は納得度が低いように思われるが、13歳の中学生という主人公の社会的立場の弱さと、義父が殺人者であり、義父が暴力をふるっている最中に発作を起こし、そして主人公が薬の場所を偽装したために死ぬ、という殺害方法が、『少女には向かない〜』の主人公に共感しやすくなっている要素だろう。

また、加担しなくてもいい犯罪に首を突っ込み、死体の解体という神をも恐れぬ所業を実行してみせる『OUT』の主人公の規範を逸脱した彼岸性(この世の者でなさ)と較べて、『少女には向かない〜』の主人公は窮鼠による必死の抵抗、という感がある。

犯行方法に関しては、主人公の友人が提案する「ぜったいにみつからない人の殺し方」が「偶然が重ならないと死なないために事故に見せかけられる、低確率で発動する罠を何度も仕掛ける」というのもので、かなり生々しいリアルさがあった。

『OUT』と『少女には向かない〜』のラストの比較も興味深い。殺人容疑を着せられて社会的立場を失った半グレと対決し、死体遺棄の罪だけでなく殺人の罪も負った主人公が海外逃亡しようと決心するシーンで終わる(うろ覚え)『OUT』に対して、『少女には向かない〜』の主人公は通りすがりの警察官に殺人を自白する。殺人という他人に言えない悪を犯したときの孤独や猜疑心(唯一の目撃者である友人にばらされないかどうか)を『少女には向かない〜』は巧みに描写しているが、だからこそ、二度目の殺人を経てそうした良心の呵責を乗り越えて、(社会的には強さだとみなされなくなる程に)精神的に「強く」なる、というラストでもよかったように思えた(これは、倫理的にひっかかる点を意図的に作っている作品は心に残ってよい、という個人的な好み)。

杉江松恋による解説も、当時刊行されていた桜庭作品全体を論じるものとなっていてとてもよかった。貴種流離譚と婚姻という観点から桜庭作品を論じている。

桜庭は二〇〇七年に『青年のための読書クラブ(新潮社)『私の男』(文藝春秋)という二作品を発表し、明らかに活動の幅を広げつつあるのである。『青年のための読書クラブ』は年代記形式の語りを採用した作品で、やはり歴史改変小説の性格を備えている。主軸となるのは女子校内で活動する読書クラブの面々。彼女たちは学園の中で異端者と見なされている(といっても当人たちは単に本を読んでいるだけなのだが)。異端者という差別視を平然と受け入れるダンディズムが爽快である。歴代の読書クラブの面々は「生徒である自分」の中に「本来の自分」を隠し持っており、いざというときにはそれが発現される。こうした物語の構えからは、 やはり「成長」「閉塞空間」といったキーワードが読み取れるだろう。特に学園の創設者にからむエピソードでは明らかに貴種流離譚が意識されている。遠い異国の地から運ばれてきた貴種の血を、少女たちが生殖以外の手段で受け継いでいく物語なのである。

『私の男』は、本稿を書いている二○○七年十一月時点では桜庭一樹の代表作と呼ぶべき作品 である。現在から過去へと遡る年代記の叙述形式をとっており、不可逆の時間をあえて遡る行為が生む「取り返しのつかない感じ」が肝となっている(金原ひとみ『オートフィクション』(集英社)などが、同様の手法を使っている)。この本の主人公・腐野花は典型的な〈流離する貴種〉だ。しかしたいへん皮肉なことに、定型の婚姻結末を拒む地点からこの小説は始まっているのである。腐野花は「わたしではないわたし」になろうとしてなりきれず、 かえって元いた場所に縛り付けられることになる主人公だ。この逆転を書いた点に同書の最大の価値がある。 『私の男』貴種流離譚という神話的構造を逆手にとり、あらゆる地上的な理解と救済を拒んで「私」 という存在の中に孤絶して生きようとする人物を描いた小説なのである。世の読者は、もっとこの小説を忌避すべきだろう。なまなかな言葉で理解しようとするには、『私の男』の中には現世から隔絶している。

『私の男』を再読したくなった。

 

印象に残った文章

・この嫌悪感を抱かせる義父描写がうまい! 子供特有の残酷さも。

「いまの、おとうさんだよね?」

質問が質問になって返されている。あたしは首を激しく振った。

「血が繋がってない。ここ重要」

「たしかに最重要だね。だって、絶望を人間にしたような姿だったもの」

「……うん」

たしかにそうだなぁ、とあたしは思った。

義父の大きな、土気色のからだ。

ごぅっごうっと鳴り続けるあの音。

へんな匂い。

つむぎだされるいやな言葉と、大人の魅力。

「……そうだね」

「葵はあれを憎んでいたんだね、ずっと」

あたしは答えなかった。うちのことがとても恥ずかしくて、うつむいた。(p. 75)

・その義父の人間性が仄見えるシーン。

義父が背後で、「二度と大人に、くずとか言うな。わかったな」とつぶやいている。傷ついていたような、悲しげなトーンの、低い声。だけどあたしはなにも聞きたくなくて、聞こえなくて、ただカードを抱きしめて震えていた。(p. 57)

・葬儀場で母親の無理解が露わになり、主人公の孤独が浮き彫りになるシーン。

そして、あたしとママはそろって焼き場で、義父の白いお骨を箸で骨壷に移した。白い骨は、カサカサと乾いて、きれいだった。とても。あたしは口の中でもごもごと(殺して、ごめんなさい……)とつぶやいた。

ママが虚ろな瞳であたしを見上げて、

「葵、なにか言った?」

「……さよなら、って言ったの」

「そう」

ママはうなづいた。

「あなた、あの人になついてたものね」

 

あたしの心が、ガラスみたいな音を立ててパリン、と一度、割れた。(p. 107)

・主人公が家を出た母親について考えるシーン。

あたしはママがいちばん大事な人が誰か知っている。それは娘でも、死んだ夫でもないし、あの新しい恋人でもない。きっと〝若いころの自分〟なんだ。都会にいて、何者かになるはずだった、若くって美人な女の子。その子は永遠にママの心の中で生き続けている。若くてきれいで生意気で、可能性に満ちあふれたままで。ママはこんなつまらない島にいるこんな自分じゃない、べつのなにかになりたいんだ。そのためなら、いつだって、ママはいくらでも捨てられる。ママはほんとうにここじゃないどこかに行ってしまうかもしれない。(p. 207)

・主人公が二度目の殺人を果たすシーン。

「あんたなんかぜんぜんこわくない。だって、こっちには大西葵がいるもん。あんたのことも、葵が、殺してくれるもん」

「はぁ?」

「大人なんて、こわくない」

「は……?」

「浩一郎さん、誰も、誰も知らなかったけどね。あたしだけ知ってたけどね。あたしの友達は、大西葵は、特別な女の子なんだよ。誰も知らないけど、葵は、本物の殺人者なんだよ。すごいでしょ?」

浩一郎さんが、うわごとのように言う静香に、なんのことだと首をかしげる

つぎの瞬間、あたしは立ち上がって、地面に落ちている大斧を拾うと、ふりかぶった。

友達の期待に応えたかった。

不思議と重さは感じなかった。

あたしはそれを、浩一郎さんの頭に振り下ろした。(pp. 248-249)

 

川谷茂樹『「定言命法」とは何か——Why be moral?とカント倫理学——』を読む① 第1章途中まで

以下は、2018年に亡くなられた倫理学者の川谷茂樹先生の博士論文についてのメモである。今回は第1章。

 

第1章 「道徳性の最上原理」としての定言命法——『基礎づけ』第1章の検討——

第1節 議論の整理

・カントの『道徳形而上学の基礎づけ』1章及び2章の議論の目的は、「そもそも道徳なるものが存在するとするならば、それはどういったものであるのか」であり、3章の目的は「道徳がそもそも存在するか」である。1章の場合は、「普通の人間理性がどのように道徳を捉えているか」を問う、といった仕方で議論が進行する。

 

・カントは、「普通の人間理性には《道徳的なよさを、道徳外的原理によって基礎すけ、根拠づけ、特徴づけることはできない》という根本認識がある」と考えていた。

↑つまり、ある行為が道徳的に善いのは、自分のためになるから、とか、みんなのためになるから、とかそういう考えを拒絶したわけだ。

 

・じゃあ、道徳的なよさを道徳的なよさにしている条件はなんなのか。カントは『基礎づけ』1章第1文において以下のように述べる。

「世界中の何処であろうと、それどころか世界の外においても、無制限に善いと見なされうるものがあるとするなら、それは善意志(guter Wille)」だけであり、それ以外には考えられない。」

この文において、カントは「善意志」を道徳的なよさを成立させる条件とみなした、と解釈できる。

 

・カントは、「善意志」とはなんなのかを解明するために、「義務」という概念をとりあげる。「義務にかなった行為」と「義務に基づいた行為」が区別される。

「義務とは、法則に対する尊敬に基づく行為の必然性である。」

カントにとって、「それが義務であり、法則だから」という理由に基づいてなされる行為のみが真に道徳的な行為であり、優しさや思いやりといった「傾向性」に基づいてなされる行為は義務にかなってはいるものの、道徳的な行為ではない。

 

・1章1節ラスト。

「この必然性的合法則性の原理を定式化すると、定言命法の法式が得られる。「行為全般の不変的合法則性」の原理と言われる、その周知の法式とは「自分の格率が普遍的法則となるべきことを、自分でも意欲できる、という以外の仕方で、私は決して振る舞うべきではない」である。カントは「普通の人間理性の道徳的認識において、その原理まで到達した」。

↑難しいが、「真に道徳的に善い行為とは、「それが法則だから」という理由でなされる行為である」という考えが発展して、「真に道徳的に振る舞うとは、自分のする行動の方針やルールが普遍的な道徳法則になってもよい、という仕方で振る舞うことだ」という「定言命法」の形式が提示されているのだと思う。

 

第2節 各プロセスにおける問題

第2節では、以上のカントの議論のどこに問題があるか、ということが指摘されていく。

 

・「よさ」を「よさ」として成立させる形式それ自体は「よくもわるくもない」はず。なぜなら、形式それ自体に「よさ」があるのだとするならば、その形式をよいものとしている形式、つまり形式の形式が問われなければならず、無限後退に陥る。

しかし、カントは「道徳的なよさ」の形式である「善意志」の「よさ」についていっぱい語ってしまう。なぜか。

「道徳的なよさ」を成立させる形式が道徳的によくもわるくもないものであるならば、他のよさと同様であり、道徳的なよさの独自性が失われてしまう。

川谷先生の引用。

「道徳的なよさの形式は、形式という観点においては、道徳的に中立無記でなければならないが、道徳的なよさ独自の原理という観点においては、道徳的に中立無記であってはならない、つまり道徳的に「よく」なければならない。

二律背反を形成するこの二つの規定を同時に満たすことは不可能である。ここでカントが選択したのは、後者を満たすことによって前者を反故にすることであった。この選択の必然性については後述する」(p. 10)

 

今日はここまで。

鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』感想

 

鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』は、哲学者の鶴見俊輔がカナダのマッギル大学で戦中期の日本について講義した内容をまとめた本で、とても読みやすかった。特に「国体について」、「非スターリン化をめざして」、「戦時下の日常生活」という三つの章が読了後も記憶に残った。

「国体について」では、明治から戦前までの日本の教育システムは二つに分かれて設計されていたことが論じられている。小学校教育と兵士の教育においては日本国家の神話を中心とする世界観が採用され、大学と高等教育においてはヨーロッパを模範とする方針が採用された。これを鶴見は戦前の日本の国家宗教における顕教的部分と密教的部分だと言う。明治政府の指導者たちは、ヨーロッパを視察するなかで、効率的な国家統治を支える国民的な倫理や宗教を羨ましいと感じた。『古事記』には天皇とその先祖である神々が何度も間違う姿が記されているにもかかわらず、明治政府は天皇を過ちを犯すことのない存在として表し、善悪の判断基準を天皇によって発表される勅語に基づくものにした。そして、あくまで国民を都合良く統治するために作られた「天皇(や統治を委託されている指導者たち)は誤らない」という思想が、いつしか指導者たちをも飲み込んでしまい、勝てる見込みのない戦争へ突き進んでいった、というのが鶴見による見立てである。政府の言論統制によって西洋由来の思想が規制された後、日本人の頭の中には天皇の不謬性を中心とする国体の観念が残り、天皇人間宣言によって国体観念が落っこちた後は、「肉体の要求に対して忠実であることが最高の価値だ」と主張する坂口安吾田村泰次郎田中英光ら戦後文芸の「肉体主義」が残った、と論じる箇所がとりわけ面白かった。

「非スターリン化をめざして」は、小説家であり、戦時期に獄中で転向した共産党員の一人でもある埴谷雄高について述べられた箇所が興味深い。鶴見によれば、埴谷の考え方はマルクス主義だけでなく仏教とジャイナ教の影響を受けており、それはある種の虚無主義の思想だとみなすことができる。さらに、鶴見は無の哲学を展開した人物として西田幾多郎を挙げる。西田が無の立場を代表する人として天皇を理想化し、日本の戦争目的に関する文書を起草するところまでいったのに対し、埴谷の虚無主義天皇崇拝を踏み抜く虚無に達していた、と鶴見は比較する。この鶴見の対比は妥当なのか、自分でも両者の思想を調べたくなった。

「戦時下の日常生活」には、思想弾圧に屈せずに戦争の時代を生き抜いた女性である九津見房子の存在を教えてもらった。九津見は、高田集蔵という独立派の宗教人と結婚し、二人の子を生んだあと、離婚を経て、1921年に日本初の社会主義女性団体である赤瀾会を設立する。同年に彼女は共産党員の三田村二郎と結婚している。九津見は1928年に逮捕され、5年間投獄されたが、書面では転向を表明しつつも行動では転向しなかった。ソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲと協力して、ソ連と日本の軍事衝突を防ぐための努力をしたために、1941年に逮捕され、8年間投獄され、戦後にGHQの指令によって解放された。戦後は、転向して反共産党ストライキ破りの指導者となった夫と政治信条を同じくすることはなく、1960年安保闘争に無名の協力者として加わっていた。鶴見は、九津見のなかに日本の転向史には珍しい独立性と弾力性を見出している。九津見房子の自伝や伝記があればぜひ読んでみたいと思った。調べると自著はないものの、評伝が三冊ほど出ていることがわかったので、忙しくない時期に読むことにしたい。

 

矢部嵩『魔女の子供はやってこない』感想

 

矢部嵩の『魔女の子供はやってこない』は、平凡な女の子の夏子が魔女見習いのぬりえとコンビを結成し、町のみんなの願い事を叶えていく……という児童向け魔法少女ものの皮を被った奇書だ。落とし物のステッキを返しに小学校の友達5人と“げろマンション”を訪れるも主人公以外が皆殺しに遭う第1話、ぬりえと友達になった夏子が交通事故で亡くなったMちゃんの父親を生き返らせてあげようと行動するも特に生き返ってほしいと思われていないことが判明するビターな第3話、全身が痒くてたまらない難病を患った男の子の死んだ母親に変身して手術を受けるよう説得する第4話も衝撃的だったのだが、後半の第5話が最も印象深く感じた。

 第5話「魔法少女帰れない家」は、ご近所さんである主婦、奥様子の願いを叶える話だ。様子は元画家で現在は主婦、昔はかっこよかったという夫、イケメン大学生の長男、剣道で活躍する高校生の長女との4人暮らしでペットにトカゲを飼っていると夏子に話す。夏子は様子の家庭に憧れを抱き、自分の家庭と比べると「神様っているのだろうな」と気がしてくる。ある日、様子に元同級生2人の結婚式の招待状が届く。美大生だった時代はこの2人といつも一緒だった、と様子は述懐する。そして、夏子とぬりえは結婚式に行くべきだと主張するのだが、様子は家事があるから行けないと言う。そこで夏子は1週間のあいだ様子に魔法で変身し、家事を代行することを請け負う。ここまではいかにも児童向けアニメにありそうなシナリオだ。

 しかし、様子としての生活が始まると、夏子は様子とその家庭について誤解をしていたことを知る。長女は夏子をババアと呼び、DVをする。イケメンの大学生は、まるで幼児のように夏子に過剰に甘えてくる。そして、彼は実は次男であり、様子がトカゲと言っていたものは引きこもりの長男であることが明らかになる。また、様子の夫は夏子から見ると化け物としか思えない容貌をしていた。そして夏子に降り掛かる最大の試練は、膨大な量の家事である。料理をしようにも包丁は見つからないし、せっかく苦労して干した洗濯物は雨でずぶ濡れになってしまう。夏子は疑問に思う。様子は画家をやめた理由について「家ででも絵は描けるもの」と言っていたが、一体「この家のどこで?」。

 なんとか1週間様子としてふるまい続けた夏子だったが、「結婚式の日付を間違えていたからあと1週間お願い」と様子から電話がある。翌日、夏子は返信をしていない結婚式の招待葉書を見つける。様子はどこで何をしているのか? ぬりえが食材だと思ってコーギーを買ってきたり、なぜか映画の約束をしたと言って様子の友人が訪れたりと、夏子の試練は止まず、タイトル通りなかなか夏子は家に帰れない(なぜ小学生が数日間帰宅しないで問題にならないかというと、ぬりえが夏子の家で夏子としてふるまっているのだ。二度手間がすぎる!)。

 2週間が過ぎ、やっと様子が家に帰ってくる。「私、奥さんは私より、何してもきっと楽しいと思ってたの。奥さんの代わりすることになって本当はとても嬉しくて、奥さんちには何でもあって、楽しいことだけがどうせ起こると思ってた。そのことを謝りたいの」と誤解していたことを謝る夏子に対して、「あんたに私の何が判るの? 来てよかった? 楽しかった? 私のことが判った? みんな同じだって? この家の一体何を見知ったら、私のことがあなたに判るっていうの?」と激昂する様子。様子は旅行に携帯していたキャリーバッグから、一枚の絵を取り出す。その絵の出来は様子が結婚する以前に描いたものと比べ、明らかに劣化していた。「どうだ。これが私だよ。駄目になった! この家に吸われて大事な物全部なくなってしまった! 食われてく、この家の奴らに、全部。持っているもの全部。私全部!」結婚式に行くという嘘で得た2週間で様子はひたすら絵を描き、そしてただ駄目になった腕の確認をしたのだ、と夏子は理解する。全てを忘れさせて、と呟いた様子の言葉通り、夏子とぬりえは様子の2週間の記憶を魔法で消す。

 ここまででもかなり面白いのだが、この話はこの後に大オチが待っている。無事自宅に帰宅した夏子は、風呂上がりにあるテレビニュースを観る。仮面をつけて素顔を隠した若い女性が結婚式で新郎新婦を含む4人を包丁で刺して殺害し、他9名が重軽傷を負った、とニュースキャスターは告げていた。包丁がなかなか見つからなかったわけ、なぜか様子の友人が約束をしていると言って訪ねてきたわけを、夏子はやっと悟る。夏子とぬりえの魔法は、様子の殺人のアリバイ作りに利用されていたのだ。「全部! 全部嘘なのか! あんたの語ったあんたは!」と問い詰める夏子だったが、すでに2週間の記憶を忘却した様子は親友たちの死を悼んで泣いている。

 このエピソードがどのような構成になっていたかというと、冒頭11pで夏子と様子が知り合った経緯と様子の家族構成や来歴を示し、次の9pで様子と夏子たちが魔法の契約を交わし、次の34pが夏子の主婦業奮闘記、最後の8pに様子の〝真相〟告白シーンとニュースで明かされる本当の真相が詰まっている。こうして構成を分析してみると、やっぱりラストのジェットコースターっぷりが凄まじい。

 二段構えのオチと伏線回収が見事なこの第5話は『魔女の子供はやってこない』の中でも屈指の名エピソードだが、最終話も度肝を抜く超常展開が目白押しなので興味を持ってくれた人はぜひ読んで感想を教えてほしい。自分は特に、ずっとマスコットキャラクター枠だと思っていた白人男性の見た目をした粘土人形のブルース(ぬりえが粘土を錬成して作った)と夏子が付き合い、家庭を築く展開が意外すぎてやばかった。最終話にしてアブラプトリー異類婚姻譚。それまでは夏子が小学3年生の時にぬりえと出会って卒業するまでの4年間を描いていたのに、最終話では70年間が経過し、人生スパンの物語になる。こういうカオスな小説が大好きなので、矢部嵩は新作を読むのが楽しみな作家のひとりになりそうだ。

岩井志麻子『べっぴんぢごく』感想

 

ホラー小説が読みたいなと思い、角川ホラー文庫の棚に寄っていったところ、「岩井志麻子版『百年の孤独』」という魅力的すぎる惹句の帯がかかった本作の姿を認め、これは買わざるを得なかった。岩井志麻子『べっぴんぢごく』は、乞食の娘に生まれながら後に岡山の名家の当主となるシヲの七歳から百四歳までの生涯と、シヲの子孫である六人の女たちを描くファミリーヒストリー小説だ。シヲの血筋は呪われており、必ず美人と醜女が交互に生まれ、さまざまな異形を幻視する。仮に愛する者として結ばれても、決して持続的な幸福を手にすることはない。

ファミリーヒストリーものとホラージャンルを組み合わせる試みが斬新であることに加え、三代目までの女性たちのキャラクターが抜群に立っていたのも素晴らしかった。シヲの娘であるふみ枝は、仲が良かった学友を美男の乞食に犯させるよう仕向け、後年になって自らもこの乞食と交わり、夫ではなく乞食との子を出産する。そうして生まれた三代目の小夜子は、幼い時分から大人を惑わす色香を纏っており、音楽教師に金持ちの女を殺害させて、彼を絞首台へと導く。マジもんの毒婦たちである。

それに対して、後半の登場人物たちはふたりのような主体性を発揮し損ねている感じが少しあって、前半の毒婦路線を貫いてほしかった。前半の登場人物の魅力が後半の登場人物を食ってしまうのは、ファミリーヒストリー小説の宿痾のようなところがあるが、ここは主役級を女性三人に絞った桜庭一樹赤朽葉家の伝説』のやり方が非常に巧みだったと思う。

また、本作を読んで思ったのは、ホラーとマジックリアリズムは相性が悪い。本作は登場人物の大半が亡霊を幻視することができるなど、非日常的な出来事を当たり前の日常として描くマジックリアリズム的技法を意識していることが随所で伺える(あとある展開が非常に『百年の孤独』っぽい)。しかし、ホラーの怖さの一つとして、「日常がいきなり非日常に変わる」怖さというものがあり、この怖さは「非日常を日常として書く」マジックリアリズムとは相反するものなんだな、というのが改めてわかった。どちらかというと、幽霊や陰惨な殺人の恐ろしさよりも、ふみ枝の妊娠を知ったシヲが「今なら日数はまだ誤魔化せるから」としれっと言ったり、七代目の羽南が友人の血塗れ死体を幻視して「あ、死んどる。」とドライなリアクションだったりするのが怖面白かった。

また、登場人物たちは「地獄だ」とか「この血筋は絶えた方がいい」とか言うのだけれど、過度に心理を深掘りしない淡々とした三人称で進行し、シヲが家で巣作りした燕を可愛がったり、玄孫の男を寝取ったりしているので(マジックリアリズムすぎる)読者からすると妙に愉快な一家に見えてしまうという奇妙な味わいがあった。変な小説が好きな人にはオススメです。