永井均によるニーチェ入門書だが、だいぶ独自の解釈が施されている(らしい)。
ライターやレジンスターのニーチェ解釈と比較したら面白そうだ、と思って読む。
要約できる部分は要約して、できなさそうな部分はそのまま抜き書き。
序文
-
永井解釈の新しさとは?
- ニーチェ哲学が提示する反社会的な(世の中の役に立たない)真理、という既存の解釈で看過されてきた側面を詳らかにしようとする点。
- ニーチェをある問いに対して優れた答えを提示した思想家としてではなく、解答の提示には決して成功していないものの、「誰も問わず、また問われなくなった」独自の問いと格闘した思想家として評価する点。
-
本書におけるニーチェ批判の二つの視点
「だから、今日、ニーチェを持ち上げ、ニーチェを後ろ盾にしてものを言いたくなるとき、そこには必ず何らかの復讐意志が隠れている。それを見逃してはならない。心からニーチェ思想を愛することができる人には、警戒心を持って接しなければならない。ニーチェがキリスト教に対して持ったのとまったく同じ種類の警戒心を、である。もしあなたが、ニーチェに頼って元気が出るような人間であるなら、ニーチェ的批判のすべては、あなたに当てはまるのである。」(pp, 11-12)
第一章 道徳批判——諸空間への序章
- 答えのなさがニヒリズムなのではなく、答えがあると信じることがニヒリズム
- 何よりもまず自分の生を肯定していることがあらゆる倫理性の基礎というのがニーチェの思想(つまり、自分に価値を感じていない人に道徳を説いても無意味だということ。たとえば、自身の処遇がどうなってもいいという人に「自分が傷つけられるのが嫌なら他人も傷つけるな」も「そんなことをしたら刑務所行きだぞ」も通じない)
「社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。」(p,30)
↑ここらへんの永井の主張には、わかる〜〜という感情と、そんなチート武器振り回して楽しいか?という背反した感情を抱く。
- 世の中のためになることを善とし、害を与えることを悪とする倫理学説は倒錯しているのではないか、というのがニーチェの問い。
- しかし、そのようなことを他人に向かって伝えるというのは可能なのか、伝わったとき、ニーチェはある種の弱者たちを先導する新しい僧侶になってしまうのではないか、というのが永井の問い。
「(客観的な真理の存在を前提し、追求しようとする)真理への意志に対するニーチェの批判が重要なのは、それが誰よりも誠実に真理への意志を貫いた者が、その誠実さの果てに行き着いた帰結だからなのであって、その空間順位はけっして逆転されえないのである」(pp, 36-37、括弧内引用者)
↑永井の解釈では、ニーチェ哲学は第一空間ニーチェと第二空間ニーチェと第三空間ニーチェに区分でき、第二空間ニーチェが第一空間ニーチェを批判したりするから、つまりニーチェがニーチェを批判するわけで、これは大変ややこしい。
-
ニーチェの第一空間……客観的真理とされる言説の虚偽を暴き、本当の真理の認識を打ち立てる。
-
ニーチェの第二空間……そのような自身の認識すらも一つの解釈にすぎないと考える。
- 永井の問い。第二空間においてニーチェは、真—偽、善—悪、美—醜の対立を強—弱の対立として一元化するが、こうした操作もニーチェが告発したような弱者道徳による価値転倒でない保証はあるのか。(真の強者は、解釈によってパースペクティブを打ち立てる必要はない。ニーチェもある種のパースペクティブの創出を行なっている弱者のひとりではないか?)
- 予告。第三空間は永遠回帰と運命愛が論じられる。
- ニーチェの同情嫌悪。永井は、ニーチェの根底に言葉を語る主体にさせられる屈辱感があると洞察する。
「同情は苦悩を取り除こうとする。それは人間の偉大さが育ってくる芽を摘み取る。」(p,48)
- 「私の道徳は、ひとりの人間から一般的性格をしだいに奪い取って特殊化していき、ついには他の人間には理解しがたいものにしてしまうことである」(ニーチェの書簡から)。ニーチェ的道徳は、人間が社会性によって傷つかないことを目指す。
第二章 ニーチェの誕生と、『悲劇の誕生』のソクラテス像
- ニーチェのデビュー作『悲劇の誕生』は、「アイスキュロスからソフォクレスをへてエウリピデスにいたるアッティカ悲劇の誕生と消滅を、アポロン的なものとディオニュソス的なものとの観点から解明することによって、ソクラテス以前のギリシア的生のあり方を明らかにしようとしたもの」(p. 59)。
- アポロンは理性の象徴にして個体化の原理であり、ディオニュソスは衝動と情念の象徴にして、個体化の原理が破壊されるときに湧き上がる恍惚である。
- ギリシア的生は、元来ディオニュソス的。
- アイスキュロスやソフォクレスによる劇は、ディオニュソス的生の高揚を表現していたが、ソクラテスの出現によって世界は体験するものでなく認識するものとなり、よく生きることは道徳的に正しく生きることと同一視されてしまう(永井はこの対立設定を「ロマン主義的空間構成」と呼ぶ)。
- ニーチェは、言語は根源的な生を隠喩的にしか語ることができず、社会的に公認された真理とはフィクションであると考える。永井によれば、言語がそうしたものでしかないことへの耐え難さがニーチェには認められる。彼は真の強者は(本質的な意味で)言葉を話さないと考えていた。
- 再び永井によるニーチェの哲学的センスの欠如の指摘。「各人の一回性の個別的な体験の事実という本来等しくないものを等しいものとして見なす」嘘が言語の本質だとすれば、どうしてその嘘について言語で語ることができるのか?という問いが生じていいはず。
- 『反時代的考察』第二論文「生にとっての歴史の利害」について。動物の生を人間が羨望するのはなぜか。動物の幸福は忘却にあり、人間の不幸の根源は過度の記憶にある。この論文では、単なる真理である客観的な歴史記述が批判され、「生に仕える真理」が対置される。
- 病気に感謝するニーチェ。病気は健康なときのパースペクティブから人を引き剥がし、別のパースペクティブを教える。多くの病気を患ったニーチェは極度に広いパースペクティブを持つ。
- ニーチェのルサンチマン理論。ぶどうに手が届かないキツネが「ぶどうは酸っぱい」と言っても、ぶどうに手が届く者を引き下げているにすぎない。しかし、「ぶどうを食べる生き方は正しくない」とキツネが言うとき、キツネは一つの解釈を生み出している。ここで起きているのは、力への意志から解釈への意志へ、という転換である。
↑「ぶどうを食べたら勝ち」というゲームのルールを解釈によって変更し、「ぶどうを食べなかったら勝ち」というゲームに変更すということ。「ぶどう」には金でも名誉でもなんでも代入できる。
第三章メモに続く。