ものぐさ読書宣教会

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【読書メモ】都築貴博「近代道徳哲学と徳倫理学——ウィリアムズの所論を踏まえて」

2010年の倫理学年報に掲載されてるはずなのに、目次にないぞー、と思って困惑していたら、

日本倫理学会第60回大会主題別討議「『アリストテレスの徳倫理学』に望みはあるか?」のいち発表としてちゃんと掲載されていた。

・目指すべき倫理学は、近代道徳哲学でもなければ徳倫理学でもない?

まず、バーナード・ウィリアムズの倫理学上の基本的な立場が紹介される。

それは、義務論や功利主義は「思考主体の欲求、性向、人柄を排除した『不偏的観点』を志向」するが、そのような観点に基づいて生きることが実践されるならば、生の有意味さを棄損してしまう、という近代道徳哲学に対して批判的な立場である。

それならば、ウィリアムズは、アリストレテスやストア派の哲学に依拠し、行為それ自体よりも行為者の性格を重視する徳倫理学と親和的なのか?

都築によれば、そうとは言い切れない。

「彼(ウィリアムズ)は徳倫理学の潮流から明確に距離をとった批判的コミットメントすら残しており、自身を徳倫理学の論者として看做していないようである」(p. 68)。

倫理学の是非をめぐる議論では、「近代道徳哲学か、あるいは徳倫理学か」という二項対立が想定されることが多い。けれども、ウィリアムズのような立場を鑑みれば、「仮に近代道徳哲学が放棄されるべきものであるとしても、徳倫理学に回帰することもできないということが、われわれのもつべき適切な自画像かもしれない」という可能性も考慮されるべきだと都築は示唆する。

・ウィリアムズのアリストテレス主義批判

つぎに、ウィリアムズのアリストテレス主義批判が二点挙げられている。

一点目は、現代においてはアリステレスの人間本性観を支持できないこと、二点目は、徳や卓越性といったアリストテレス倫理学におけるキー概念が現代の倫理的実践を理解する上でも有効性を持つ、という主張への懐疑である。

一点目のアリストテレスの人間本性観に対する疑義について。

それはどういうことかというと、人間本性の考察を通じて、諸々の卓越性が調和するたった一つの理想的な生き方が導き出せる、というアリストレテスの信念は、私たちにとって信じるに足るものではないということである。ある徳が卓越していても、他の徳が欠落していること、また、ある徳が他の徳と方向性において衝突することは十分に考え得るからだ(ここでの「徳」概念は、「能力」という概念と言い換え可能なように用いられていると読める)。

この点に関して、徳倫理学者のハーストハウスからの反論があるようで、ハーストハウスによると、「諸能力の衝突を強調することはニヒリズムであり倫理的実践と相容れない」ということらしいが、これだけ読んでも私には反論になっているようには思えなかった。

二点目の、アリストテレス倫理学のキー概念の現代的有効性について、まず「薄い概念」と「濃い概念」の区別が言及される。

「薄い概念」はたとえば「正しさ」のような、文化的に異なる集団間でも通用する概念であり、明文的な諸原則によって統制される公的な意思決定の場では、この「薄い概念」が中心的に用いられる。

他方の「濃い概念」は、たとえば勇気、残忍、卑怯というものであり、「行為を指導する評価的なものでありながら、世界の側から適用が決定されるという記述の特徴をもつ」。この「世界の側から適用が決定される」というのがよくわからなかった。とりあえず、「濃い概念」は記述的でありながら評価的でもある仕方で使用される、という理解でいいだろう。

「濃い概念」は、文化的に異なる集団間でも通用するものではないが、個人はこの「濃い概念」を使用して、生や世界を意味付けている。公的な領域を統制する諸規則においては、規則は曖昧であってはならないため、この「濃い概念」は排除される。しかし、「濃い概念」は、「個人の倫理的経験に実質を与えるものとして不可欠である」(p. 70)。

多くの倫理学理論は、「濃い概念」を「薄い概念」に還元することを試みるが、そのような試みは正当化されるものではない。

では反対に、勇気、残忍、卑怯などの徳、という「濃い概念」に訴えて倫理学を構築するアリストテレス倫理学はなぜウィリアムズの批判対象となるのか。

これは微妙に読み取りにくかったのだが、アリストテレスもまた他の倫理学理論と同様に「倫理に客観的基礎を与え」ようとするが、使用する概念が「濃い概念」である以上、ローカルな集団間を超えて普遍的に妥当する「客観的基礎」にはなり得ない、という批判であると理解した((また、これに付け加えて、都築は、「濃い概念」がローカルなものである以上、公的な領域での「正しい行為は何か」という議論で、新アリストテレス主義者たちが「濃い概念」に訴えた主張をするのは不適切である、という批判を行っている。)。そもそもウィリアムズは倫理の客観的基礎付け全般にかんして否定的な立場をとっている(はず)。

だが、ウィリアムズは、あらゆる現代の倫理的思考において、徳や卓越性といった概念の使用を否定するわけではないようだ。発表の最後の節から引用する。

近代道徳哲学は近代世界に「あまりに深く気づかないままに囚われてしまい、合理性という行政官庁的な観念に無反省に訴える」のである。ウィリアムズは、反省を通じて近代道徳哲学とそれに関する諸概念を放棄するよう訴える。それは、社会的影響のもとで育まれる自己の具体的人柄を倫理的思考の適切な場として言わば取り戻す作業である。

しかし、それは過去に回帰することではない。近代道徳哲学を脱したのちも、われわれが近代世界に生きているという事実に変わりはない。われわれは人間本性観と社会構造の両面においてアリストテレスとは異なる地点におり、それは過去とは異なった、もはや逆戻りさせることのできない世界なのである。無論、アリストテレスから学ぶことは大いにあるだろう。人間本性の考察も徳の概念も不可欠である。その一方で、われわれとアリストテレスの相違を自覚することもまた重要である(p. 71)。

つまり、「社会的にどの行為が許されるべきか」を議論する社会道徳では、アリストテレスの概念の適切な使用は難しいが、「私は何をなすべきか」を考える個人道徳では、アリストテレスの概念は有効っていう理解でいいのかな。

「薄い概念」と「濃い概念」の区別はまだ十分に理解したとは言えないので、ウィリアムズ『生き方』を読み直そう。

動機付けの問題も気になってきたので、成田先生の論文「義務による動機付けと感情による動機付け—バーバラ・ハーマンとバーナード・ウィリアムズの論争を中心に—」も読みたい。

おまけ

競走馬のアリストテレス。第62回アメリカジョッキーC(G2)で勝利した。騎手はルメール