ものぐさ読書宣教会

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【読書メモ】都築貴博「近代道徳哲学と徳倫理学——ウィリアムズの所論を踏まえて」

2010年の倫理学年報に掲載されてるはずなのに、目次にないぞー、と思って困惑していたら、

日本倫理学会第60回大会主題別討議「『アリストテレスの徳倫理学』に望みはあるか?」のいち発表としてちゃんと掲載されていた。

・目指すべき倫理学は、近代道徳哲学でもなければ徳倫理学でもない?

まず、バーナード・ウィリアムズの倫理学上の基本的な立場が紹介される。

それは、義務論や功利主義は「思考主体の欲求、性向、人柄を排除した『不偏的観点』を志向」するが、そのような観点に基づいて生きることが実践されるならば、生の有意味さを棄損してしまう、という近代道徳哲学に対して批判的な立場である。

それならば、ウィリアムズは、アリストレテスやストア派の哲学に依拠し、行為それ自体よりも行為者の性格を重視する徳倫理学と親和的なのか?

都築によれば、そうとは言い切れない。

「彼(ウィリアムズ)は徳倫理学の潮流から明確に距離をとった批判的コミットメントすら残しており、自身を徳倫理学の論者として看做していないようである」(p. 68)。

倫理学の是非をめぐる議論では、「近代道徳哲学か、あるいは徳倫理学か」という二項対立が想定されることが多い。けれども、ウィリアムズのような立場を鑑みれば、「仮に近代道徳哲学が放棄されるべきものであるとしても、徳倫理学に回帰することもできないということが、われわれのもつべき適切な自画像かもしれない」という可能性も考慮されるべきだと都築は示唆する。

・ウィリアムズのアリストテレス主義批判

つぎに、ウィリアムズのアリストテレス主義批判が二点挙げられている。

一点目は、現代においてはアリステレスの人間本性観を支持できないこと、二点目は、徳や卓越性といったアリストテレス倫理学におけるキー概念が現代の倫理的実践を理解する上でも有効性を持つ、という主張への懐疑である。

一点目のアリストテレスの人間本性観に対する疑義について。

それはどういうことかというと、人間本性の考察を通じて、諸々の卓越性が調和するたった一つの理想的な生き方が導き出せる、というアリストレテスの信念は、私たちにとって信じるに足るものではないということである。ある徳が卓越していても、他の徳が欠落していること、また、ある徳が他の徳と方向性において衝突することは十分に考え得るからだ(ここでの「徳」概念は、「能力」という概念と言い換え可能なように用いられていると読める)。

この点に関して、徳倫理学者のハーストハウスからの反論があるようで、ハーストハウスによると、「諸能力の衝突を強調することはニヒリズムであり倫理的実践と相容れない」ということらしいが、これだけ読んでも私には反論になっているようには思えなかった。

二点目の、アリストテレス倫理学のキー概念の現代的有効性について、まず「薄い概念」と「濃い概念」の区別が言及される。

「薄い概念」はたとえば「正しさ」のような、文化的に異なる集団間でも通用する概念であり、明文的な諸原則によって統制される公的な意思決定の場では、この「薄い概念」が中心的に用いられる。

他方の「濃い概念」は、たとえば勇気、残忍、卑怯というものであり、「行為を指導する評価的なものでありながら、世界の側から適用が決定されるという記述の特徴をもつ」。この「世界の側から適用が決定される」というのがよくわからなかった。とりあえず、「濃い概念」は記述的でありながら評価的でもある仕方で使用される、という理解でいいだろう。

「濃い概念」は、文化的に異なる集団間でも通用するものではないが、個人はこの「濃い概念」を使用して、生や世界を意味付けている。公的な領域を統制する諸規則においては、規則は曖昧であってはならないため、この「濃い概念」は排除される。しかし、「濃い概念」は、「個人の倫理的経験に実質を与えるものとして不可欠である」(p. 70)。

多くの倫理学理論は、「濃い概念」を「薄い概念」に還元することを試みるが、そのような試みは正当化されるものではない。

では反対に、勇気、残忍、卑怯などの徳、という「濃い概念」に訴えて倫理学を構築するアリストテレス倫理学はなぜウィリアムズの批判対象となるのか。

これは微妙に読み取りにくかったのだが、アリストテレスもまた他の倫理学理論と同様に「倫理に客観的基礎を与え」ようとするが、使用する概念が「濃い概念」である以上、ローカルな集団間を超えて普遍的に妥当する「客観的基礎」にはなり得ない、という批判であると理解した((また、これに付け加えて、都築は、「濃い概念」がローカルなものである以上、公的な領域での「正しい行為は何か」という議論で、新アリストテレス主義者たちが「濃い概念」に訴えた主張をするのは不適切である、という批判を行っている。)。そもそもウィリアムズは倫理の客観的基礎付け全般にかんして否定的な立場をとっている(はず)。

だが、ウィリアムズは、あらゆる現代の倫理的思考において、徳や卓越性といった概念の使用を否定するわけではないようだ。発表の最後の節から引用する。

近代道徳哲学は近代世界に「あまりに深く気づかないままに囚われてしまい、合理性という行政官庁的な観念に無反省に訴える」のである。ウィリアムズは、反省を通じて近代道徳哲学とそれに関する諸概念を放棄するよう訴える。それは、社会的影響のもとで育まれる自己の具体的人柄を倫理的思考の適切な場として言わば取り戻す作業である。

しかし、それは過去に回帰することではない。近代道徳哲学を脱したのちも、われわれが近代世界に生きているという事実に変わりはない。われわれは人間本性観と社会構造の両面においてアリストテレスとは異なる地点におり、それは過去とは異なった、もはや逆戻りさせることのできない世界なのである。無論、アリストテレスから学ぶことは大いにあるだろう。人間本性の考察も徳の概念も不可欠である。その一方で、われわれとアリストテレスの相違を自覚することもまた重要である(p. 71)。

つまり、「社会的にどの行為が許されるべきか」を議論する社会道徳では、アリストテレスの概念の適切な使用は難しいが、「私は何をなすべきか」を考える個人道徳では、アリストテレスの概念は有効っていう理解でいいのかな。

「薄い概念」と「濃い概念」の区別はまだ十分に理解したとは言えないので、ウィリアムズ『生き方』を読み直そう。

動機付けの問題も気になってきたので、成田先生の論文「義務による動機付けと感情による動機付け—バーバラ・ハーマンとバーナード・ウィリアムズの論争を中心に—」も読みたい。

おまけ

競走馬のアリストテレス。第62回アメリカジョッキーC(G2)で勝利した。騎手はルメール

 

永井均『これがニーチェだ』序文〜第二章読書メモ

 

永井均によるニーチェ入門書だが、だいぶ独自の解釈が施されている(らしい)。

ライターやレジンスターのニーチェ解釈と比較したら面白そうだ、と思って読む。

要約できる部分は要約して、できなさそうな部分はそのまま抜き書き。

序文

  • 永井解釈の新しさとは?

  1. ニーチェ哲学が提示する反社会的な(世の中の役に立たない)真理、という既存の解釈で看過されてきた側面を詳らかにしようとする点。
  2. ニーチェをある問いに対して優れた答えを提示した思想家としてではなく、解答の提示には決して成功していないものの、「誰も問わず、また問われなくなった」独自の問いと格闘した思想家として評価する点。
  1. カントの超越論的哲学を代表する伝統的な哲学的議論に対するニーチェの感度の鈍さ
  2. ニーチェ的観点からのニーチェ批判

「だから、今日、ニーチェを持ち上げ、ニーチェを後ろ盾にしてものを言いたくなるとき、そこには必ず何らかの復讐意志が隠れている。それを見逃してはならない。心からニーチェ思想を愛することができる人には、警戒心を持って接しなければならない。ニーチェキリスト教に対して持ったのとまったく同じ種類の警戒心を、である。もしあなたが、ニーチェに頼って元気が出るような人間であるなら、ニーチェ的批判のすべては、あなたに当てはまるのである。」(pp, 11-12)

第一章 道徳批判——諸空間への序章

  • 答えのなさがニヒリズムなのではなく、答えがあると信じることがニヒリズム
  • 何よりもまず自分の生を肯定していることがあらゆる倫理性の基礎というのがニーチェの思想(つまり、自分に価値を感じていない人に道徳を説いても無意味だということ。たとえば、自身の処遇がどうなってもいいという人に「自分が傷つけられるのが嫌なら他人も傷つけるな」も「そんなことをしたら刑務所行きだぞ」も通じない)

「社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。」(p,30)

↑ここらへんの永井の主張には、わかる〜〜という感情と、そんなチート武器振り回して楽しいか?という背反した感情を抱く。

  • 世の中のためになることを善とし、害を与えることを悪とする倫理学説は倒錯しているのではないか、というのがニーチェの問い。
  • しかし、そのようなことを他人に向かって伝えるというのは可能なのか、伝わったとき、ニーチェはある種の弱者たちを先導する新しい僧侶になってしまうのではないか、というのが永井の問い。

「(客観的な真理の存在を前提し、追求しようとする)真理への意志に対するニーチェの批判が重要なのは、それが誰よりも誠実に真理への意志を貫いた者が、その誠実さの果てに行き着いた帰結だからなのであって、その空間順位はけっして逆転されえないのである」(pp, 36-37、括弧内引用者)

  • ニーチェの見立てでは、「キリスト教道徳は誠実さという自己破壊的な道徳も育て」、さらに「道徳の根っこを掘り崩そうとするニーチェ的誠実さ」がなにに由来しているかをも追及する。

↑永井の解釈では、ニーチェ哲学は第一空間ニーチェと第二空間ニーチェと第三空間ニーチェに区分でき、第二空間ニーチェが第一空間ニーチェを批判したりするから、つまりニーチェニーチェを批判するわけで、これは大変ややこしい。

  • ニーチェの第一空間……客観的真理とされる言説の虚偽を暴き、本当の真理の認識を打ち立てる。

  • ニーチェの第二空間……そのような自身の認識すらも一つの解釈にすぎないと考える。

  • 永井の問い。第二空間においてニーチェは、真—偽、善—悪、美—醜の対立を強—弱の対立として一元化するが、こうした操作もニーチェが告発したような弱者道徳による価値転倒でない保証はあるのか。(真の強者は、解釈によってパースペクティブを打ち立てる必要はない。ニーチェもある種のパースペクティブの創出を行なっている弱者のひとりではないか?)
  • 予告。第三空間は永遠回帰と運命愛が論じられる。
  • ニーチェの同情嫌悪。永井は、ニーチェの根底に言葉を語る主体にさせられる屈辱感があると洞察する。

「同情は苦悩を取り除こうとする。それは人間の偉大さが育ってくる芽を摘み取る。」(p,48)

  • 「私の道徳は、ひとりの人間から一般的性格をしだいに奪い取って特殊化していき、ついには他の人間には理解しがたいものにしてしまうことである」(ニーチェの書簡から)。ニーチェ的道徳は、人間が社会性によって傷つかないことを目指す。

第二章 ニーチェの誕生と、『悲劇の誕生』のソクラテス

  • ニーチェのデビュー作『悲劇の誕生』は、「アイスキュロスからソフォクレスをへてエウリピデスにいたるアッティカ悲劇の誕生と消滅を、アポロン的なものディオニュソス的なものとの観点から解明することによって、ソクラテス以前のギリシア的生のあり方を明らかにしようとしたもの」(p. 59)。
  • アポロンは理性の象徴にして個体化の原理であり、ディオニュソスは衝動と情念の象徴にして、個体化の原理が破壊されるときに湧き上がる恍惚である。
  • ギリシア的生は、元来ディオニュソス的。
  • アイスキュロスソフォクレスによる劇は、ディオニュソス的生の高揚を表現していたが、ソクラテスの出現によって世界は体験するものでなく認識するものとなり、よく生きることは道徳的に正しく生きることと同一視されてしまう(永井はこの対立設定を「ロマン主義的空間構成」と呼ぶ)。
  • ニーチェは、言語は根源的な生を隠喩的にしか語ることができず、社会的に公認された真理とはフィクションであると考える。永井によれば、言語がそうしたものでしかないことへの耐え難さがニーチェには認められる。彼は真の強者は(本質的な意味で)言葉を話さないと考えていた。
  • 再び永井によるニーチェの哲学的センスの欠如の指摘。「各人の一回性の個別的な体験の事実という本来等しくないものを等しいものとして見なす」嘘が言語の本質だとすれば、どうしてその嘘について言語で語ることができるのか?という問いが生じていいはず。
  • 『反時代的考察』第二論文「生にとっての歴史の利害」について。動物の生を人間が羨望するのはなぜか。動物の幸福は忘却にあり、人間の不幸の根源は過度の記憶にある。この論文では、単なる真理である客観的な歴史記述が批判され、「生に仕える真理」が対置される。
  • 病気に感謝するニーチェ。病気は健康なときのパースペクティブから人を引き剥がし、別のパースペクティブを教える。多くの病気を患ったニーチェは極度に広いパースペクティブを持つ。

↑この話はドゥルーズニーチェ』にもあった記憶。

  • ニーチェルサンチマン理論。ぶどうに手が届かないキツネが「ぶどうは酸っぱい」と言っても、ぶどうに手が届く者を引き下げているにすぎない。しかし、「ぶどうを食べる生き方は正しくない」とキツネが言うとき、キツネは一つの解釈を生み出している。ここで起きているのは、力への意志から解釈への意志へ、という転換である。

↑「ぶどうを食べたら勝ち」というゲームのルールを解釈によって変更し、「ぶどうを食べなかったら勝ち」というゲームに変更すということ。「ぶどう」には金でも名誉でもなんでも代入できる。

第三章メモに続く。

スピヴァク『ある学問の死』一章「境界を横断する」 読書会メモ

読書会を通じて知り合った仏文科の優秀な友人と食事に行ったら、なんと、比較文学が変革する可能性について論じられている、スピヴァク『ある学問の死』第一章「境界を横断する」の5.6時間連続読書会が開催されてしまった!!

せっかくの読書会、やりっぱなしではもったいないので、備忘録として最中にとっていたメモをブログにアップしておくことにする。

以下、スピヴァク『ある学問の死』一章「境界を横断する」読書会レジュメになります。誤読などのご指摘があれば、コメントしてくださると嬉しいです!(≧▽≦)

p. 3

比較文学研究が変革をはじめようとしたのは、多文化主義カルチュラル・スタディーズが台頭してきた1992年のときである。

p. 6

比較文学とカルチュラル・スタディー*1/多文化主義の単純な結合は、うまくいきすぎる(文学は文化・社会を表象するものだと盲信する)か、全くうまくいかない(文学は文化・社会を表象できないという結論に陥る)のどちらかになる。

エスニック・スタディーズ(文化人類学。民族に依拠)と地域研究(地域に依拠)の安易な結合もまた、文学的なものや言語的なものの軽視につながる恐れがある。

・しかし、スピヴァクはそれらの学問分野同士の敵対心を除去することをまず提案する。(たとえば、比較文学のカルスタ化は文学理論の浅薄な援用を招く!という攻撃的な批判に対して)

p. 8

・専門の垣根を取り払うべき。「比較文学は世界全体にわたる広汎なものであるべき」とスピヴァクは考える。

p. 10

・「わたしたち周縁にいる者たちは、地域研究、人類学といった周縁についての専門家たちとの接触をさけがち」。

↑ここでの「わたしたち周縁にいる者たち」は、比較文学者とも、スピヴァクがそうであるような移民としても捉えることができる。

・地域研究やエスニック・スタディーズは現状追認的になりがち。

↑「衰微しつつある資源」(p. 10)とあるように、既存のパイを研究者が取り合っているイメージ。

・対して、新しい比較文学は「可能性としての学」である。

p. 11

・なのに、従来の比較文学はヨーロッパ中心主義的なものにとどまっているので、そこから脱却しなければならない。

p. 12

・人文科学に支えられない地域研究は境界を横断すると称しながら、その実、侵犯している。

↑みずからのオリエンタリズムへの批判的観点が欠如している。

pp, 12-13

・地域研究とカルスタの対比。ここではカルスタが批判されている。

地域研究……脱ディシプリン志向で、エリアに基づいて思考する。言語習得などの質が高く、保守的だが、政治的狡知さがある(研究対象の諸国の権力エリートとの結びつきを有している)。

カルスタ……メトロポリス(宗主国、(新)植民地主義的な支配を行う先進国)の言語中心で行われている。現在主義、個人主義、アカデミズムの表面的な政治化を推進する傾向。

P. 13

・カルスタにとっての真の「他者」は、ヨーロッパ諸国民言語学科が提供するヨーロッパ諸国民言語学科が提供する文明論コースである。

↑「ヨーロッパ諸国民言語学科」はおそらく「仏文科、独文科」のような学科のことを指している。カルスタ・地域研究にとって専門性を固守しようとするヨーロッパ文学科は共通の仮想敵である。閉鎖的な専門性の解体作業に、比較文学科も参入せよ、ということ。

 p. 14

・冷戦下において、地域研究は地域相互の、比較文学はヨーロッパ国民間の敵対心を土台として生まれた。

・この「地域」と「国民」との間にある分断状態を切り抜けるため、比較文学は、旧来の「国民」別の境域のうちに、フランス語「圏」・ドイツ語「圏」etcを導入することで、「国民」概念の流動化を図るが、結局のところ、覇権的言語の支配体制の強化に加担しているのではないか?という懸念がある。

p. 15

比較文学の新たな一歩……英語「圏」・フランス語「圏」etcの研究から脱却し、(南半球の?)他者の言語に対して静的な対象としてでなく、流動的なものとして接近する。

p. 16

・あらゆる言語を混血的/雑種的なものとみなす言語的訓練をスピヴァクは奨励する。

・「言葉でつくられたテクストはみずからの言語的な特徴を守ることには熱心だが、国民的同一性には耐えがたいものを感じる。この逆説があるからこそ、翻訳の需要は高まるのである」。

↑ここでの“demand”は、「需要」より「要求」ととった方が正確? なぜテクストは内在的に翻訳を要求するのか、という問題(スピヴァク「翻訳の政治学」やベンヤミン「翻訳者の使命」と関連しそうなトピック)。

・従来の比較文学がヨーロッパの覇権的な言語の完全習得を要請しなかったように、「新しい比較文学もまた従属的な地位に置かれた言語のすべてを習得するよう学生に求めたりはしない」。

フランコモレッティの『遠読』批判。安易にデータ分析に飛びつくより、堅実に言語習得するべし。

P. 17

デリダの引用。「概念は慣用的な語法として定着した差異を超越することはできない」。このような知見は、もちろん非ヨーロッパ言語にも当てはまる。

第三世界(いまこのような呼称が適切かはわからないが)の人々の慣用的な語法への関心が、比較文学の変革にとって重要である。それを無視して協力関係だけ結びたいという姿勢には問題がある。

p. 18

・(来るかもしれない)新しい比較文学はヨーロッパ言語に依存した植民地主義を払拭し、歴史学と人類学と連携して、「他者」(主に第三世界の人々?)と接触する。

p. 19

アメリカの学校教育は、多様な人種・ジェンダー・階級の交差する現状に対応できていない。

スピヴァクの経験によれば、英語の覇権主義を内面化した英語を母語とする学生よりも、「社会的な生存と必要に迫られて」第二言語として英語を選択せざるを得なかった学生の方が想像力の柔軟性に優れている。

p. 21

・「『ジェンダーと開発』の外部においては、人権の問題は、ほとんどの場合、軍事的介入に立ちいるような、貿易と関連した政治的パラダイムの内部に閉じこめられてしまっている」(p. 21)。

・(普遍的な人権概念が存在する、というような)結論をあらかじめ想定せず、文化的に多様な倫理体系への通時的な接近を図るべき。

↑ヨーロッパ的な「人権」理念を押し付けるな!という主張。

p. 22

・多様な倫理体系への接近を試みるような研究は、特定の利害関心をもった情報提供者(ネイティブ・インフォーマント)に依存するより、言語に基礎を置いた文献調査をするべきである。

スピヴァクは、比較文学の範囲を拡大することによってジェンダー教育と人権問題への介入を補完することを目指そう、と主張している。

p. 23

・人類学者と、スピヴァクが自らのものとするような想像力をもった読者、この二つの立場には大きな差異がある。

スピヴァクは文学教育の役割を他者化すること/他者として接するための想像力を訓練することにあると再定義する。

リチャード・ローティも『偶然性・アイロニー・連帯』で似たようなことを言っていた気がする。

・そのとき、翻訳の仕事は、身体から倫理的記号作用への翻訳、「生」と呼ばれる絶え間ない往復運動となる。

p. 24

メラニー・クラインの引用。幼児の発達段階において、まさにこの「翻訳」行為がなされているのだとする(幼児は、内部と外部の把握を繰り返し、把握されたものを通じて自身に現れてくるものをひとつの記号体系のうちにコード化する操作をしているらしい)。

・翻訳によって補完を試みることは、第三世界における人権を考える上で役立つ。

グローバル化が進行する現在、大規模な人口移動が擬似国家的な集合体を生み出しつつあり、カルチュラル・スタディーズ/エスニック・スタディーズのステレオタイプな生産者・消費者の見方は、これに対応できていない。

・国境の仮想現実化が一部を形成しつつある「不確かな未来」を両者は見ることができない。新しい比較文学はこれを可視することができるのではないか。

p. 26

・土着自生的なものの文学的特性を考える上で、比較文学と地域研究が協働することで、グローバリゼーションに対抗する可能性がある。

p. 27

・グローバリゼーションにおける境界横断の不均衡がある。

ウォーラーステイン世界システム論と同様の趣旨でよいか。たとえば、発展途上国アメリカのテレビ番組が放映されていたとしても、その逆はない、といった事態。

・このような状況を描写した例として、マリーズ・コンデの第一作目の小説『エレマコノン』が挙げられる。

p. 28

サバルタン*2階級である小説『エレマコノン』の語り手が、上流階級のフランス人女性に対して自身の環境における言語の異種混淆性について話すが、フランス人女性はその話題をスルーする。

p. 29

・植民地化され、支配国の言語を学習させられることで、現地の人々はグローバルな経済圏への参入が可能になった反面、現地の言語は死んでしまう。すなわち「力を賦与する侵犯」(enabling violation)。

・しかし、私たちはこのような傍観者的な判断を下していいものだろうか。

↑いや、ダメだ、とスピヴァクは主張したいはず。

p. 30

・『エレマコノン』の英訳において、フランス語原文で「プール語も、トゥクルール語も」となっていたのが、「フラン語も、トゥクルール語も」となっている。しかし、フラン語というのは、プール語とトゥクルール語の双方を含んでしまっている。

・この不可避的な翻訳による変化は、人口学上の国境の移動によって生じる、民族や言語の線引きの困難を示している。そして、これはポストモダンという時代におけるグローバリゼーション以前から存在する困難でもある。

p. 31

・このような翻訳の過程にある(以上の例であれば)フランス語によって形成され、英語によって撤回された「姿を消してしまった歴史」*3を、新しい比較文学は可視化させることができる。

・その歴史は、「わたしたちの想像力の真の仮想現実性が発揮されるのを待っている、さまざまな民族と言語の運動に充満した空間」である(!)。

↑よくわかんねーけど、なんかスゴそうなこといってる!

p. 32

アメリカ中心のカルスタにとらわれるかぎり、この歴史を可視化することはできず、批評的とは呼べない動機付けモデルやお手軽な精神分析用語を駆使した分析にとどまってしまう。

↑再度、手厳しいカルスタ批判。

・このような分析では、『エレマコノン』は単なるビルドゥングスロマン(教養小説)として解釈されるほかないだろう。

・カルスタは未分化の「アフリカ」なるものを想定してしまっている(安易に本質主義的な「他者」としてみなしてしまう)。

p. 33

スピヴァクは、比較文学と地域研究の協働を改めて主張する。カルスタが一つの言語に依存していて、現在主義的、自己愛的、精読に通じていないために母語の分裂すら理解できていない、と徹底的に批判。

・カルスタ路線では、文学作品を道徳教育の副教材としてわかりやすく解釈してしまう(固定的で既定された解釈をなぞるだけ)。

スピヴァクは、クッツェー『夷狄を待ちながら』のいち場面を例に挙げて、カルスタがいずれ過ぎ去るいち流行ではなく、従来的な精読の手法を駆逐してしまう可能性を示唆する(入植者たちが侵略地域に定住したように!)。

p. 35

比較文学と地域研究の結集・連携の可能性への抵抗の原因として、ディシプリンの変容にまつわる恐れに加えて、(研究の)品質管理が失われる恐れが考えられる。

比較文学者メアリー・ルイーズ・プラットは、オーウェル動物農場』における農場主のいなくなった農場の動物たちになぞらえて、その不安を表現している。

p. 36

・(アメリカ同時多発テロ事件を経た)現在(本書の出版は2003年)、農場主の帰還を待望する欲望が、反動的な「人間主義」、「普遍主義」、品質管理、テロリズムとの闘い(という名目でなされる監視・抑圧)への要求として現れている。

・これらの恐れからの脱出路を新しい比較文学に求め、スピヴァククッツェー『夷狄を待ちながら』の解釈に立ち戻る。

・この作品は、論理的と修辞的*4と呼びうるなにかを全面に押し出している。

プロトコル(基礎的作法)にあたる論理的なくだりは、帝国主義者的経験が物語の枠内で歴史的に一般化可能なかたちで説明されている。

・対して、修辞的なくだりでは、登場人物の(帝国の軍人である)執政官は、論理的記述の主体という設定に基づくものではなく、夷狄の娘を「特異であると同時に責任感も感じさせる抱擁関係のなかで把握し」、「解読しようとする」存在として描写されている。

p. 37

・好色な執政官は娘と性的行為を果たそうと努力するが、失敗し、「(夷狄の)女性からは自分のしようとしている行為が相手には明らかでない」という一般論(←? 原文に当たる必要があるか。紋切り型の弁明みたいな意味だろうか)を導き出す。

フロイトが「不気味なもの」について、「わたしたち自身が『外国語を話す者たち』である」と述べていたことをスピヴァクはここで想起する。

↑まったく意味がとれなかった。お手上げ!!自らを他者であり、読まれる客体として想像する、ということ?

p. 38

・この後、執政官は夷狄の囚人たちの処遇に口を挟み、投獄されて人間としての尊厳を失ってしまう。これをスピヴァクは「異議申し立ての驚嘆すべき例」と評する。

・執政官の解読の試みにおける「娘という、他のなにものにも還元しえない形象」という表現は矛盾的である(従来、形象はより抽象的な意味に還元可能なものであるから)。

・以降も、娘の眼に映る執政官という主体は、「守護天使」または「獲物を狙うカラス」として意味決定が不可能なように比喩的な形象がなされている。

・他者としての夷狄に知覚されるかぎりの、主体としての執政官の意味(どのようにみなされているか)は、まず第一に確定的に言明されておらず、次いで、(「なのだろうか」という表現によって)疑問形で、そして選択肢が複数で(守護天使なのか、獲物を狙うカラスなのか)与えられていることによって、無限定であり、決定不可能である。

p. 39

・文学は研究対象であるだけでなく、わたしたちの教師ともなる。執政官の探究は、わたしたちの欲望を整理しなおすきっかけを与えてくれる。

・「わたしたちの自身の決定不可能な意味は、他者の眼の代理を務めている還元不可能な形象のうちに宿っている」。

↑新しい比較文学が文学作品を通じて「ヨーロッパの他者」の視点を代理的に借り受けることによって、みずからを他者化する可能性がここでは提示されている。

メモ書き、終わり。読書会をして頂けた方に改めて感謝です!!!

 

 

*1:文化(大衆文化やおそらく伝統芸能も含む)を語ることで社会を分析する学問分野。1960年代にイギリスで創始。代表的な学者はスチュアート・ホールなど。

*2:サバルタン」という概念は、イタリアのマルクス主義批評家アントニオ・グラムシが提唱したものである。

 グラムシは、労働者や抑圧された主体には、支配体制と共犯関係にあるような意識と支配に抵抗する可能性を秘めた意識、二重のイデオロギーが作動しているとする。こうした「階級主体」内部の差異を探ろうとするグラムシは、なぜ人がイデオロギーを信じるようになるのかを問う上で「覇権」(ヘゲモニー)概念を定式化する。覇権とは、強制と同意を組み合わせることによって打ち立てられる権力である。「支配されることに『自ら喜んで』従属する主体を作り出すことを通じて、支配階級は支配を確立する。」

覇権を持たず社会的・政治的意識も未発達のため国家やイデオロギーに逆らうことができずに従属する者を、彼は「サバルタン」と呼ぶ。また、ラナジット・グーハを筆頭とするインドのサバルタン研究グループは、グラムシ理論を応用して、サバルタンを他の階級と同様に運動や叛乱を通して歴史を駆動する「主体」として捉えようとした。それに対してスピヴァクは、著書『サバルタンは語ることができるか』でサバルタンの置かれる状況、「主体」の問題を再考することで、さらにこの概念を深化させようと試みている。

*3:この「姿を消してしまった歴史」という語は、スピヴァクの著書『ポストコロニアル理性批判』の副題にも据えられている。

*4:この区別はスピヴァク「翻訳の政治学」でも登場するもので、スピヴァクは文学作品をロジック・レトリック・サイレンスの三層構造で捉えるらしい。

2023/2/16日記 ジェイムソン『政治的無意識』④

更新がしばし滞ってしまった。合間にコンラッド『ロード・ジム』とソポクレス『アンティゴネー』、バトラー『アンティゴネーの主張』を読んだりしていた。前住んでいたシェアハウスの飲み会に顔を出したりもした。現状報告はこの程度にして、『政治的無意識』pp, 33-50の内容をザッとさらっていく。

聖書の解釈学(pp, 33-36)

マスター・ナラティブのはたらき、そして、アレゴリーの枠組みをさぐるため、フレドリック・ジェイムソンは聖書の解釈学へと踏み入っていく。

この解釈学の体系は、聖書の字句を四つのレベルに分けて解釈する、教父学と中世の伝統のなかで育まれた体系である。この体系が帯びているイデオロギー上の使命とは、古典時代(古代ギリシアおよび古代ローマが栄えた、おおむね紀元前8世紀から紀元6世紀ころまでを指す)の後期において、「旧約聖書新約聖書に同化吸収し、ユダヤ人の残したテクストと文化的遺産を、異教徒にも利用できるかたちに書き換える」ことであった。この新しいアレゴリー体系は、原テクスト(旧約聖書)を解体して象徴のかたまりへと作り変える*1ことはせず、原テクストの文字通りの意味を温存する。

この体系は、旧約聖書の歴史指示性と、比喩形象の体系としての利用価値を共存させる。

この観点は、歴史そのものを神の書物とみる概念によって保証される。神である<作者>がこっそり忍びこませた予言的メッセージの記号なり痕跡を求めて、私たちが旧約聖書を研究し、注釈を加えられるように。

その結果、キリストの生涯つまり新約聖書のテクストも、旧約聖書に秘められていた予言やお告げのしるしを成就するものとして捉えられる。新約聖書は、第二の、まさにアレゴリカルな、レベルをかたちづくり、このレベルにもとづく観点から、旧約聖書の書き換えがおこなわれる。そうなると、このアレゴリーは、テクストの複数の意味へ、絶えまなくつづく書き換えと重ね書きの過程へと、開くはたらきをするものだとわかる。(pp, 33-34)

キリストの生涯の観点から旧約聖書を解釈することは、テクストを閉じて偶発的・逸脱的な解釈を封じ込めるのではなく、むしろイデオロギー備給のしやすいようにテクストをお膳立てする。ここでの「イデオロギー」とは、「個人主体が、超個人的な諸現実——たとえば社会構造とか集団の論理によって支えられる<歴史>——と彼ないし彼女との生きた関係を、思い描いたり想像したりするとき、そのような思いこみを可能にする表層構造」というアルチュセール的意味で用いられている。

いま言及された例は、イスラエルの民という特定の集団の歴史の、キリストという特定の個人の歴史への書き換えである。この還元作用は、D&Gが批判した日常生活に対するフロイトエディプス・コンプレックス的還元と似ていなくもない。しかし、前者の還元は、そこからさらに新たな二つの解釈レベルが生まれる契機となる点において、後者のそれと異なっている。

その新たな解釈レベルとは、信者がテクストに自身を「挿入」できる、《道徳的》解釈と《秘儀的》解釈だという。難しいので、そのまま引用してみる。

たとえば、 第三と第四のレベルでは、イスラエルの民がエジプトに縛りつけられるという、まさに読んで字のごとくの歴史的事実は、未来の信者が罪と俗事に拘束される状態というよ うに書き換えられる。この束縛から個人個人が解放されるのは、彼ないし彼女が信仰に帰依したときである(イスラエルの民のエジプト脱出と、キリストの復活は、ともどもこの解放の比喩形象とみなされる)。だが、個人の魂の過程を示す第三のレベルは、それだけではまだじゅうぶんでない。いや、それどころか、第三のレベルはすかさず、第四の秘義的意味を生みおとす。この第四のレベルで、テクストに最後の書き換えがおこなわれ、人類全体の運命が暗示されるにいたる。エジプトは、長くてつらい煉獄の苦しみ、地上の歴史そのものを予示するようになる。ただキリストの再臨と最後の審判だけが、人間を歴史という名の煉獄から解放してくれるというわけだ。かくして、キリストの犠牲と個人の内面のドラマという迂路を経てふたたび、歴史的で集団的な次元へともどってきたことになる。とはいえ、特殊な世俗の民族の物語は、まったく同じところに回帰したわけではない。 物語は特定の地上の民の歴史物語から、宇宙の歴史、人類全体の運命にまつわる物語へと変貌を遂げる――これで四つのレベルの体系に最初から仕組まれていた、機能面とイデオロギー面双方にかかわる変貌が成就したことになる。この四つのレベルをまとめれば次ページの図のようになる。(p. 35)

四レベルあるいは四つの意味からなる旧約聖書の釈義学体系。

ジェイムソンは、この体系から解釈のジレンマに対する解決の糸口が得られるという。

思い出そう、それは私たちにあたかも社会的・政治的でないテクストが存在するかのように錯覚させる、「私的なるものと公的なるもの、心理的なものと社会的なもの、詩的なものと政治的なもの、この両者のあいだに横たわる」通約不可能性というジレンマである。

以上のキリスト教的枠組みの閉止=完結性から学ぶべきものがある。

たとえば、現代アメリカのイデオロギー風土で称揚されている「多元論」の立場から説かれる解釈の多様化プログラムは、解釈の結果を体系的に分節化したり全体化する作業をおろそかにしてい、「解釈相互の関係をめぐる問題、またとりわけ歴史の占める位置、物語生産とテクスト生産の究極的根拠に関する問題」が放置されている。

↑逆に釈義学の体系はそうではない、という理解でよいだろうか。

アルチュセールの表現型因果律批判、ふたたび(pp, 37-40)

先に述べたアルチュセールの表現型因果律批判の矛先は、ヘーゲル的観念論という直接の攻撃目標だけではなく、それを超えて神義論にも向かっていると考えられる。

神義論は、解釈のどれか一つを代表にしてそれ以外の解釈を吸収し、複数の解釈が結局はひとつの同一性を持つ、という解釈操作を経て生まれるものだからである。

また、これは上部構造の事象の原因を下部構造に還元できる、「経済を究極的な決定審級」とする伝統的マルクス主義への批判でもある。

この図式がアレゴリーの図式であることは、ルカーチのリアリズム論からも体得できる。

ルカーチの分析は、文化的テクストを社会の特徴や要素を示すアレゴリカルなモデルとして捉え、登場人物を「社会階級や階級衝突を示す比喩形象」として読み替える。

また、一般的な「イデオロギー分析」(ジェイムソンは階級的観点からおこなわれる国家構造の脱神秘化と呼び表す)も同様にアレゴリカルである。

↑うん、ライプニッツの「神義論」という用語以外は特にわかりにくい箇所はない。

さて、アルチュセールを批判した表現型因果律のジレンマ、これをジェイムソンはどう擁護するのか。

おれの理解だと、アルチュセールの批判点は表現型因果律が歴史からある要点だけを汲み出してきてそれをあたかも時代の「本質」であるかのように普遍化させてしまうことにあったはずだ。

このようなマスター・ナラティブから解釈しようとする習慣は、私たちの思考法そのものにしみついている。

↑たとえば、「このテクストはいかなるメッセージを発しているのか?」という問いがそうかもしれない。もしそのような還元が可能なら、そのテクストは無用の長物になってしまう。

アレゴリカルな物語がシニフィエとなりおおせ、このシニフィエが文学テクストや文化テクストにこびりついて離れない次元になっているとすれば、ひとえにそれは、私たちの集団的思考や、歴史と現実について私たちがいだくもろもろの空想の根幹をなす次元を、そのようなシニフィエが、反映しているからだ。いま次元と述べたものに対応するのは、むろん、テクストのなかにみられる時事問題への言及の網の目だけとはかぎらないのだが、ただそれにしても、この時事問題への言及なるものを、非歴史的にテクストを読もうとする読者や形式主義的にテクストを読もうとする読者は、ふつうやっきになって振りはらおうとするものだ――ミルトンやスウィフト、スペンサーやホーソンそのものを読んでいたいのに、どうでもいいような当時の出来事や政治的状況に対 する言及を作品のなかからほじくりだし、それを御親切にも教えてくれる、無味乾燥で耐えがたいほど杓子定規な脚注めいたたわごととして。もし現代の読者が、テクストとテクストが生まれた歴史的状況とのつながりに、うんざりしたり、それを醜聞としてうけとめたりするとすれば、これはまちがいなく、読者が自分自身の政治的無意識に抵抗している証左であり、しかもそれは、読者が(合衆国の場合は、一世代がこぞって)自分自身のなかにある歴史のテクストを読み解いたり書いたりすることを拒んでいる証左なのだ。たとえば、バルザックの 『老嬢』などは、資本主義時代の文学における政治的アレゴリーのなかで生じた意義深い変移を暗示している。 政治的なものへの直接的言及から成る、脚注-サブテクスト的古くさい網の目が、この作品では、物語のメカニズムそのものへと実質的に吸収されたといってよく、社会階級や政治体制への考察が、物語生産全体をめぐる 《野生の思考》そのものと化してゆく(詳しくは本書第三章を参照)。しかし、「表現型因果律」を研究することでこのようなことまで明らかにできるとすれば、この因果律をそのおおもとから摘み取ってしまうのは、私たち自身の文化的・実践的経験のなかにある歴史というテクストならびに政治的無意識を実質的に抑圧することにつながりはすまいか。だとすれば事は重大である。なにしろ、日増しに私的化するこの世界で、テクストにある政治的次元は、ほとんど聞きとれぬくらいにかぼそいものに変えられているのだから。(pp, 39-40)

↑おそらく、ここでのジェイムソンの擁護は逆説的なものである。表現型因果律を体現するルカーチ的な読み(もっと広くとれば歴史主義的な読みということになるだろうか?)を現代の読者が忌避しているのであれば、表現型因果律という思考法を放棄することは、結果的にその抑圧の作用を否認することに加担してしまう。

こうしてジェイムソンは、アルチュセールの批判を受け止めつつ、表現型因果律に基づく解釈にも意義を認める。しかし、アルチュセールが打ち出した「構造論的因果律」の概念はこれまでの解釈法とは違う画期的な解釈の可能性をもたらすのか、これは未だ重要な問題である。

ヘーゲルと共闘するアルチュセール(pp, 41-50)

アルチュセールの「階層」概念の独自性とは何か?

アルチュセールは生産様式を、狭義の経済とは同一視せず、むしろ構造全体だとみなす。アルチュセール構造主義はただひとつの構造しかない構造主義である。

つまり、そこでは、生産様式そのもの、あるいは社会的諸関係全体から成る共時的システムが、ただひとつの構造として存在している。また、そうであるがゆえに、この「構造」は不在の原因ともなる。なぜなら、構造は、一要素として経験によって把握できるかたちではどこにも現前していないし、全体のなかの一部、あるいは、あまたあるレベルのひとつでもなく、むしろ、さまざまなレベル間の諸関係から成る全システムにほかならないからである。(pp, 42-43)

以上のような認識から、「資本主義下で新しく図体の大きくなった国家装置を、『打破』すべきたんなる障害としてではなく、階級闘争と政治行動の拠点として注目するよう促す」ような、国家と国家装置の「準-自律性」を重要視するマルクス主義的立場が生じてくる。これを文化研究の問題に置き換えれば、テクストはなんらかのコンテクストや基盤のイデオロギー的反映なのか、それともコンテクストを否定するような自律性を備えているのか、というジレンマに私たちは直面しているということになる。

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自律と反映の両義性というジレンマ、その源は古典的弁証法の用語である《媒介》概念に見出せるとジェイムソンは指摘する。

媒介とは、「ある芸術作品の形式分析をその作品の社会的基盤と関係づけたり、政治体制の内的力学とその体制の経済基盤を関係づけたりすることを意味している」。

ジェイムソンによれば、アルチュセールはこの《媒介》概念を、ヘーゲル的な意味の表現型因果律、つまり、さまざまなレベルのあいだに象徴的同一性を拵えるものと同一視している。

しかし、ジェイムソンは、アルチュセールの構造的因果律もまた媒介の実践にほかならないのだ、と主張する。

アルチュセールが構造的因果律という考えを通して言いたかったのは、「各レベルが最終的には構造的に相互依存の関係にある」ということであり、そこで起きているのは、ひとつのレベルが別のレベルに反映される直接的な媒介ではなく、構造を経由する媒介である。アルチュセールの攻撃目標とは、「媒介概念そのものではなく、弁証法の伝統のなかで単純な直接性と呼びならわされてきたもの」であり、その文脈において彼はむしろ、「未熟な直接性や、内省から導きだされたのではない統一性をこしらえることを、ねばり強く批判しつづけた」ヘーゲルと共闘している(!)。

ジェイムソンのまとめ。

こう考えてよいなら、アルチュセールの構造的因果律は、そのおおもとにおいて、それが反対している「表現型因果律」と同様、媒介の実践にほかならぬということになる。二つの異なる現象に等しく使えるコードを、戦略的に、また部分的に案出することを媒介であると述べることは、二つの事例を語るとき同一のメッセージを用いよという命令を必ずしも意味しない。あるいはこうもいえるだろう。差異を数えあげることができるには、ある種の大きな一般的同一性が背景になければならない、と。この原初的な同一性の確立を、媒介はもくろむ。この原初的な同一性を背景にしたとき――ただし、そのときにかぎり部分的な同一性なり差異なりが、登録できるのである。(p. 49)

テクストをテクスト外の諸関係へと結びつけようと試みるタイプの文学批評にとって、これらの媒介の実践は欠かせないものである。

しかし、それはアルチュセールが批判した表現型因果律に陥ること、テクストを単なる反映の対象とみなすことではない。

たとえば、モダニズム(文学)が十九世紀後半の社会生活を見舞った物象化*2の反映物であるというだけでなく、「物象化に対する反逆であり、また、日常生活のレベルで日増しにつのる脱人間化傾向をつぐなうユートピア的代償に関係する象徴行為」でもあるということをジェイムソンは本書で示そうとしているのだ。

↑疲れてきたので、今回はここでおしまい。

次回、私たちはアルチュセールの批判の「ほんとうの力」を目撃することになる。

 

*1:合理主義的ヘレニズム解釈はこの姿勢を取った。西洋哲学史において、ヘレニズム時代、つまり前4世紀から前1世紀のギリシア哲学を指すヘレニズム哲学は、たしかに普遍主義、個人主義的な性格とともに語られることが多い。ジェイムソンによれば、ヘレニズム期の人々は、ホメロス叙事詩における原初的で多神教的文献群を、肉体の諸要素の内的闘争、もしくは美徳と悪徳の戦いに還元して解釈してしまった。

*2:生産物は他の生産物に値するという関係にたってはじめて商品という形態をとるが、商品はそれ自体として価値存在であるかのように意識される。それに伴って、自他の活動を社会的に有用なものとして関係づける人と人との関係が、物に内在的な性質から派生するように意識されてしまう。つまり、人と人との関係が物と物との関係として現れてしまうことを指す、らしい。

2023/2/7日記 ジェイムソン『政治的無意識』③

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マルクス主義の哲学者ルイ・アルチュセール(1918-1990)

アルチュセール構造主義マルクス主義(pp,25-30)

ニーチェ的な反解釈的潮流は、アルチュセール構造主義マルクス主義にも見つかる。

アルチュセールの立場は、三つの因果律形式(あるいは「効力」)の歴史をめぐる彼の理論で明らかにされている。

以下、ジェイムソンのアルチュセール資本論を読む』からの引用をいくつか孫引きしてみよう。

〈政治経済学〉に対するマルクスのラディカルな修正によって浮かびあがった認識論上の問題は、次のようにいいあらわせるだろう。特定の領域の諸現象を、その領域の構造によって決定するのが、新しいタイプの決定論であるといましがた確認したわけだが、では、いかなる概念を用いたらこの新しいタイプの決定論について考えることができるのか? と。……別言すれば、どうしたら構造的因果律を定義できるのか?

アルチュセールのいう、効力に関する思考において、古典的哲学で利用できる2つのシステム。

  1. デカルト哲学に端を発する機械論的システム(因果律を、《推移的》で分析的な効力に還元する)
  2. ライプニッツの《表現=表出》システム(全体を《内的本質》に還元する。要素もしくは部分に対して全体が及ぼす効力について語ることができる)

↑2は「諸要素のそれぞれに対し全体がいかなる効力をおよぼすか思索可能にする」点でよさそうに見えるが、このシステムが使用する内的本質/外的現象というカテゴリーは、「全体がある種の本性をもつことを前提としてしまっている」。「そのカテゴリーでは、全体は構造ではないということが絶対条件だったのだ」。

そして、効力に関する第三の概念、構造的因果律の概念。

マルクス主義の価値理論全体のキー概念、〝Darstellung〟[表象]概念は構造的因果律概念の要約である。〝Darstellung〟[表象]は、「構造がその諸《効果》[=結果]のなかに《現前》する様式を具体的に示す」ものである。

構造の「換喩的な因果律」のなかで、構造の効果に原因が不在であるようにみえるのは、構造が外在的なのではなく、構造がその効果のなかにひとつの構造として内在しているからである。

効果は、構造の刻印を待つ、あらかじめ存在している対象なり要素なり関係ではなく、その効果のなかに、効果というかたちで遍在する。

構造とは、スピノザ的な意味でいう、結果に内在する原因である。

↑すげー面白いけどムズイナーと思っていたら、直後にジェイムソンの説明。

第一のタイプの効力、デカルト的機械論は、ビリヤード型のモデルで、つまり原因と結果のセットで考えるもの。

アルチュセールが改訂を試みる)伝統的マルクス主義の理論にも、たとえば悪名高い「下部構造」と「上部構造」のなかに、この機械論的モデルが含まれている。

このモデルは、「ガリレオニュートンの世界観と結びつけられ、現代物理学の不確定性原理によって克服されたと考えられている」が(そうなんだ)、ジェイムソンはこの「機械論的効力のカテゴリーでも、文化分析のなかで局所的にせよ有効性をおびることもある」と主張する。例として、19世紀後半の出版業界の危機による→ギッシングのような作家の小説生産形態の変容。

だが、ほんとうにスキャンダラスなのは、特定の形式上の変化についてのこうした思考法ではなく、むしろそのような客観的出来事やそのような性格の文化的変化が起こっているという事実なのだ。そのようなことの起こる世界では、使用価値と交換価値が袂を分かっているため、まさにいま述べたような「スキャンダラス」で外在的なタイプの不連続性や、亀裂や、ちぐはぐな作用が生まれる。この不連続性、この亀裂、このちぐはぐな作用は、「内側から」つまり現象学的に、把握しようとしてもむりで、理解しようと思うなら、まずそれらを徴候として再構成せねばならない。な んといっても、徴候の原因は、その結果とは別の現象秩序に属しているのだから。さて、こうなると、機械論的因果律は、それ独自の観点にもとづいて評価されるような概念というよりも、私たちの特殊な物象化された社会的・文化的生活を支配する、さまざまな法則や下位システムに関する概念であるとわかる。この因果律に支配された偶発的経験に直面することは、文化批評家にとっては、むしろありがたいことなのだ。文化批評家にとって外在的なるもののスキャンダルは、文化生産を最終的に規定する物質的基盤を、そして「意識を決定する社会的存在」の力を、あらためて思い起こさせてくれるからである。(p. 29)

↑機械論的因果律は、「私たちの特殊な物象化された社会的・文化的生活を支配する、さまざまな法則や下位システムに関する概念」かー、うーん。たとえ機械論的因果律が、科学的に否定されるものだとしても、私たちの生活において容易に手放すことができる思考モデルではないよね、というのはわかる。「原因と結果」、めっちゃ使うもん。

したがって、機械論的因果律 「概念」に対するアルチュセールイデオロギー的分析には、反対せずにはいられない。このカテゴリーは、なるほど満足のゆくものではないかもしれない。だが、それは、たんに虚偽意識の一形式のみならず、私たちをいまだに呪縛している客観的矛盾の徴候でもあるのだから、簡単に否定されてもこまるのである。(pp, 29-30)

読み間違えていた。アルチュセールは効力に関する3つのうち、機械論的モデルと《表現=表出》モデルを批判するが、ジェイムソンはそれに必ずしも同意しないって構図か。

さてここまで語れば、次のことも明らかになるだろう。アルチュセールの議論がはらむ問題の核心のみならず、今日の文化批評においてもこのうえなく重要な問題点(そして危険な陥穽) とは、彼が列挙する二番目の効力の形式、すなわち「表現型因果律」である、と。「全体化」のスローガンを掲げて、アルチュセールがおこなった「表現型因果律」批判に対抗しようとしても、肩すかしを喰らうだけだ。なぜなら、ほかならぬ アプローチ。 全体化そのものが、「表現型因果律」と決めつけられた思考法のひとつに組みこまれているのだから。この「表現型因果律」 批判が標的にしているのは、古くは、特定の歴史的段階における世界観とか時代様式に関するさまざまな概念化(テーヌ、リーグル、シュペングラー、ゴルドマン)から、新しいところでは、ある特定の歴史的一時期における認識基盤もしくは記号体系のモデルをこしらえようとする現代の構造主義的・ポスト構造主義的営為ーーフーコードゥルーズ/ガタリ、ユーリイ・ロトマン、あるいは現代の消費社会の理論家たち(なか でもとりわけジャン・ボードリヤール)の試み――までと、目をみはるほど多岐にわたっている。そこでこう列挙してみてわかるように、アルチュセールの批判がめざすところは、「表現型因果律」を駆使した中心人物であるヘーゲルの仕事――なにしろ、非もしくは反-ヘーゲルの立場を公然と表明している思想家たちのなかにも、 そのヘーゲル因果律の影響はありありとうかがえるのだから――のみならず、もっと広い範囲に及ぶということだろう。と同時に、ここで争点となっているのは、一般的にいうと文化の時代区分の問題、個別的にいうと、 「歴史的「時代」のカテゴリーに関する問題だということも、それとなくわかる[たとえば時代精神などを考えようとすることも、表現型因果律にのっとった思考法である]。(p. 30)

アルチュセールの「表現型因果律」批判の射程広すぎる……!!!

時代精神を云々するもの、フーコーエピステーメー概念とかも批判するわけかー。リアリズム/モダニズム/ポストモダニズムの単線的な文学史なんか、批判対象の典型なわけか。そこらへんの批判は最近なんとなく掴んできた。たしかランシエールも『感性的なもののパルタージュ』で、モダニズムという概念に対する批判を展開していたはず。

いやそればかりではない。マルクス主義に固有の「表現型因果律」モデル群もまた、アルチュセールの攻撃の的となるだろう。ただし、マルクス主義のモデル群のほうは、アルチュセールとはやや異なる観点からも、媒介実践の無視として、また個人実践と集団実践双方に関する かなりいかがわしい観念論的概念を劇的に表明しただけのものとして、手きびしく非難されてきた。この二種の非難については、本章の終わりのほうで、とりあげようと思う。(pp, 30-31)

こっちの方の批判は、伝統的マルクス主義に詳しくないから全然ピンと来ない。

アルチュセールの「歴史主義」批判(pp, 31-33)

時代の区分化の実践を根拠付けている「歴史主義」にアルチュセールは批判の矛先を向ける。

アルチュセールの著作における「歴史主義」は政治的含みを持つ暗号であり、彼が「歴史主義」と名指すのは、社会主義への移行を、いわゆる『段階』というかたちで区切るさまざまなマルクス主義理論である」。具体的には、「レーニン帝国主義理論や、『社会主義』と『共産主義』を区別するスターリンの理論をへて、はては歴史的発展に関するカウツキーや社会民主主義の図式にいたる理論」である。この「歴史主義」に対するアルチュセールの攻撃は、当時のフランス共産党内部における反スターリン主義闘争の一部でもあった。なお、構造主義記号論の立場でなされた歴史主義批判の古典的な仕事にレヴィ=ストロース『野生の思考』最終章「歴史と弁証法」がある。

↑原注一章☆12。最後のはたしかサルトル批判だっけ?前半部は重要だから、本文に書いてくれよ。

さて、こうした「歴史主義」は、「ひとつの時代が全体としてまとまっているという」全体化の操作によって、「縫い目のない現象の網状体」を仕立て上げる。この網状体では、なんらかの統一された内的真理、その時代の「世界観」や「時代様式」や「一連の構造的カテゴリー」を、個々の現象がそれぞれ独自のやり方で「表現」する。

↑いちいち括弧をつけたのは、これらは虚構だとアルチュセールが批判するものだから。

これはD&Gがフロイト理論を非難した理由と同じような、歴史主義による還元操作である。

このように拵えられた「歴史的全体」では、必然的にその全体内部の一要素を分離し特権化する操作が行われる。その一要素が「全体」のなかの他の要素や特徴を解明する「内的性質」、マスター・コードになってしまう。

↑そうしたやり口は、他の要素や特徴を解明するどころか実質無視してしまうわけだ。

しかし、時代区分化の「そうした手続きは、文化研究の分野でどのような仕事をおこなうにせよ、満足のゆかないものであるとともに、実は必要不可欠であるようにも思われる」。(p. 32)

また、この問題に加えられる、もっと大きな問題、〈歴史〉そのものの再現=表象の問題がある。

  1. すべてが縫い目のないかたちで緊密に関係づけられる「時代」のなかでは、私たちは時代の全体的システムに直面しているのか、観念論的時代「概念」に直面しているにすぎないのか定かではないという問題。
  2. 時代や段階、契機の連続といった直線的な形式で歴史を捉えてよいのかという通時性の問題。

ジェイムソンによれば、後者がより重要である。個々の時代構成にはつねに密かに「説話」としての物語による再現=表象が含意されている。

アルチュセールの批判する「表現型因果律」ないし「歴史主義」を実現する形式とは、テクストや人造物の因果連鎖が、より「基本的な」物語に還元されるスケールの大きいアレゴリカルな解釈である。

そのアレゴリカルな解釈で与えられる「基本的な」物語、マスター・ナラティブの例として、ヘーゲルの歴史哲学や(マルクスの?)唯物史観、シュペングラーの破局的歴史ヴィジョンが挙げられる。

アルチュセールが『歴史・人間・階級』で主張したテーゼ、「歴史とは、《テロス》なき、主体なき過程である」とは、こうしたマスター・ナラティブ、それに付随する物語の閉止=完結(《テロス》)と登場人物(歴史の主体)の批判である。

 

ジェイムソンによれば、この歴史のアレゴリーは「神学的」と称される。次いで、聖書の解釈学、聖書の字句を四つのレベルに分けて解釈する体系について検討される。これはマスター・ナラティブの構造を鮮やかに浮かび上がらせる。

2023/2/5-6日記 ジェイムソン『政治的無意識』②

第一章「解釈について」を読み進める。

本書における理論篇。

歴史主義のジレンマ(pp,18-19)

ジェイムソンは、文学の政治的解釈は、解釈する方法の一つの選択肢ではなく、むしろ「あらゆる読解、あらゆる解釈の絶対的地平」を形成すると主張する。

しかし、たとえば「ダンテにおけるフィレンツェの政治的背景」や「ミルトンと教会分離派との関係」といった研究は、政治的解釈ではなくそれを可能にする前提条件に留まる。

このような過去の文化との考古学的な関係に満足している文学研究と同じく、現代の文学理論の多くの傾向も物足りないとジェイムソンは指弾する。

その傾向は、過去の特定のテクストを(ポスト)モダニズム的に書き換えるというものだ。

それらの書き換え作業において、「リアリズム的テクスト」、「指示的テクスト」が悪玉であり、モダニズム的に「開かれたテクスト」、《エクリチュール》が善玉である。

↑一読した通りにしか読めないテクストを(論者が恣意的に決定して)非難し、そうでない特殊な読みを誘発するテクストを称揚する、ということ?

そうなると、それらのテクストの境界線、認識論的断絶を設定する必要が出てくる。◯◯はリアリズム作家だが、××はモダニズム作家だという風に。

以下はジェイムソンの例示。

あなたはフローベールのなかにある「テクスト」的、現代的なものすべてをとりだそうと考えている。そうなるとバルザックには、啓蒙化されていない再現主義を代表してもらわないといけない。ところが、『S/Z』のバルトにならって、バルザックをフィリップ・ソルレスに等しい作家として、つまり彼のテクストを純然たるテクスト、《エクリチュール》として書き換えようと考えるなら、あなたは認識論的断絶をどこか別のところにずらさなければならない。

↑論者が認識論的断絶を恣意的に決定してるでしょ、ってことね。避けがたいアポリアに思えるが、どうすれば乗り越えられるのか。

好古趣味、現代性の投影、二つの選択肢のいずれも選べない状況、これこそ「ときには太古にまでさかのぼる過去の文化が残した遺物を、文化の面でも異なる現在の状況に役立てようとするときの問題点」、歴史主義の古きジレンマである。

歴史哲学へ(pp, 19-21)

真正の歴史哲学だけが、過去の特殊性や根源的差異を正しく認識し、過去の論争、情念、経験、そして闘争が現在のそれと連帯するだろうとジェイムソンは前提する。

無益ではないにしても、有効性を失っている歴史哲学は、キリスト教歴史主義、進歩史観的な実証主義と古典的リベラリズム、ヘルダーと結び付けられる民族主義である。

またしても、マルクス主義だけがこのジレンマを解決し、「過去の文化の本質的神秘について妥当な説明を私たちにあたえてくれる」という予告。

そしてジェイムソンの口説き文句が来ます↓

(前略)私たちは、とうの昔に死に絶えたもろもろの問題が自分に語りかけてくる声をつかのま聞くことができる。 部族社会の秩序が季節変化に応じて更新されること。〈三位一体〉説をめぐってたたかわされた激しい議論。望ましき 《ポリス》や世界帝国をめぐって、 おびただしいモデルが提案されたこと。あるいはもう少し近い時代を考慮すると、たとえば、十九世紀の民族国家における議会とジャーナリズムのあり方をめぐって、いまでは黴の生えた論争が熱心におこなわれたこと。こうした過去の出来事が、私たちにとってもいかに切実なものであるかを、理解することは可能だ。もし、過去の出来事が、単一の大きな集団的物語という統一体のなかで、語りなおされるならば。いいかえるなら、もし過去の出来事が、たとえどんなに偽装され象徴化された形式をおびていようとも、単一の根本的主題ーーマルクス主義ではこれを、〈必然性〉の国から〈自由〉の国をもぎとることと考えるーーを、みなひとしく分かちもつとみ なされるならば。そう、もし、過去の出来事のひとつひとつが、単一の広大な未完のプロットに欠かせないエピソードと捉えられるならばーー「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷、貴族と平民、君主と農奴、ギルドの親方と徒弟要するに抑圧する者と抑圧される者ーーとは、つねに対立し、と きには隠れた、ときには公然たる闘争を、たえまなくおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも、社会全体の革命的改造に終わるか、あるいは、あい戦う階級の共倒れに終わるかの、いずれかだった」。この途切れることなくつづいている物語のさまざまな痕跡を追跡すること。この原基的歴史の、抑圧され埋葬された現実を、テクストの表面に呼びもどしてやること。これをおこなうときに、大いに役立つもの、そしてなくてはならぬもの、 それが政治的無意識の原理である。(p. 21)

あ……

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アツすぎる。

マルクス主義者になっちゃう〜♡

 

……以上の観点に立てば、「政治的でない」テクストなど存在しない。

資本主義下の社会生活において例外なく存在する、「公的なものと私的なもの、社会的なものと心理的なもの、政治的なものと詩的なもの、歴史もしくは社会と『個人的な』もの、この両者のあいだに設けられた構造的・経験的・概念的断絶」(p. 22)は、私たちの個人的生のあり方と時間と変化に関する思考を歪め、社会からの避難所として自由の国が存在していると考えさせる。たとえば、テクストから得られる体験や、私的宗教の恍惚。

しかし、そのような自由の国は、〈必然性〉に支配され、拘束されている。そこから逃れるためには、究極的には(最後の分析では)すべてが政治的なのだと認知するしかない。

↑「自由の国」とか〈必然性〉が何を指しているのか気になる。マルクス資本論』からの引用らしいが。

〝in the last analysis〟(最後の分析)(p. 22)

文化的産物を社会的象徴行為としてあばく多様な道筋をさぐる。

ジェイムソンが、政治的無意識の存在を主張して提案するのはこのことである。

新しい解釈法構築のプロジェクト案のために、ジェイムソンは新しい解釈法がそれまでの解釈コードよりも優っていることを証明しなければならない。

今後続く実践篇で示されるのは、新たな解釈学構築のための実例である。

解釈への攻撃(pp, 23-25)

以上の予告は、「解釈を敵視する批評と理論の風土」に対する宣戦布告でもある。

現在のフランスにおけるポスト構造主義は論争のターゲットのひとつに、解釈学あるいは解釈行為を選んでいる。ポスト構造主義ニーチェという強力な権威をうしろだてに解釈操作をさまざまなものと同一視してきた。たとえば解釈とは歴史主義にほかならない。あるいは解釈は、弁証法、それもとりわけ不在と否定性を重くみる弁証法、全体化する思考の必然性と優位を説く弁証法と、同じ穴のムジナとみられている。私は、こうした同一視に反対はしない。解釈学もしくは解釈行為が、イデオロギー面でややもすると観念論に堕する可能性があることをこのように批判することは、私も大いに賛成だ。ただその種の批判が、まちがった相手に向けられている点、ゆるがせにできないのである。(p.23)

↑まず「ゆるがせにできない」は、相手を無視することはできないという意味らしい。

ここで言及されているニーチェ的な反解釈というのは、なんなのだろう。力への意志?わからない……。

解釈に対する攻撃の最近の例として、ドゥルーズガタリ(以後めんどいのでD&G)『アンチ・オイディプス』によるフロイト的解釈の批判がある。

その批判の理由は、「フロイト的解釈が、具体的で日常的な経験の、豊かでランダムで多様なあり方を、閉鎖的で戦略的で限界ある家族物語に書き換えてしまう」ことだ。

その家族物語には、神話、ギリシア悲劇、ファミリー・ロマンス、ラカンエディプス・コンプレックス構造主義版も含まれる。

批判されているのはアレゴリー的解釈システムであり、このシステムはひとつの物語系列に属するデータを範例となる物語に沿うよう書き換え、範例の物語をマスターコード、書き換えられる物語の究極的な隠れた意味もしくは無意識的な意味として提示する。

↑「ひとつの物語系列に属するデータ」が具体的に何なのかピンとこない。「書き換えられる物語」と同じものを指しているのか?

ジェイムソンは、D&Gが自分と同じく「日常生活や個人の空想-体験のなにものにもかえがたい政治的内容の特異性をあらためて主張し、すべてをひとしなみ純粋な主観的なものや、心的投影の地位に還元するやり口を批判して、政治的内容の特異性を救出しようとしている」(p.24)とする。

pp, 24-25にかけて『アンチ・オイディプス』からの長い引用。重要と思われる箇所を抜粋する。

「無意識がもたらすのは意味の問題ではなく、もっぱら用法の問題である。欲望によってもたらされる問いは、『それはなにを意味しているか?』という問いではなく、『それはどのように作用するか?』という問いである。」

「欲望の登場と、『それはなにを意味するか?』という問いかけの全般的信用失墜とは軸を一にしている。」

「まず、意味は用法以外のなにかであってはならない。また、正当な用法を決めることのできる内在的基準が、われわれの手の内にしっかり握られているときはじめて、意味を用法と同一視することが、確固たる原則と化すようでないといけない。また逆に、用法そのものを仮説でしかない意味に結びつけ、一種の超越をふたたび確立するようなもろもろの用法は、不当なものとしりぞけねばならない。」

↑うーん、わからん。ドゥルーズ学徒に聞きますかねえ。このような反解釈的方法をD&Gはスキゾ分析と呼ぶらしい。それも解釈法じゃね?と思ったら、同様の指摘をジェイムソンが原注一章☆7でしていた。また、反解釈の立場を打ち出すポスト構造主義の哲学者も新しい「方法」の必要性を痛感していて、それはフーコー「知の考古学」、デリダ「グラマトロジーについて」、ボードリヤール「象徴交換」などから伺えるとのこと。

しかし、にもかかわらず、いま私たちがよってたつ観点からみれば、ここで語られているような理想、つまりテクストの内在的な批評をめざし、テクストの諸部品を解体あるいは脱構築し、テクストの機能あるいは機能不全をあますところなく記述するという理想は、そのまますぐに、解釈行為の全面否定につながらない。いや、つながらないどころか、これは、新たな、もっと適切でもっと内在的な、それも反超越的な解釈モデルの要請へと、つながるものなのだ。新たな解釈モデルの構築、これが以下につづくページでの課題となるだろう。(p.25)

なるほど。一章導入部おしまい。

明後日読書会で一章を扱うので、かなりやばい。

2023/2/4日記 ジェイムソン『政治的無意識』①

 

一年前にまるでわからず挫折したフレドリック・ジェイムソン(通称フレちゃん)『政治的無意識——社会的象徴行為としての物語』の読書会の機会を頂いたので、再挑戦していく。本書は、文化批評や物語論マルクス主義批評の方法論を駆使した、19世紀の小説に関する文芸批評である。

 

今回は「はじめに」(p. 9-16)についてのメモ

歴史化せよ

・スローガン「つねに歴史化せよ!」が掲げられ、対象を考察する方法(事物それ自体の歴史的起源をさぐる)と、主体を考察する方法(事物を理解しようとする際に用いられる概念なりカテゴリーの無形の歴史性をさぐる)、この二つの歴史化の手続きのうち、本書では後者をジェイムソンは選択する。

・テクスト解釈におけるジェイムソンの仮説

私たちは物それ自体としての新鮮なテクストに触れることは不可能であり、つねに既存の解釈や読みの習慣を通して、テクストは把握される。つまり、私たちの研究対象はテクストそのものではなく、解釈のほうとなる。

↑わかる。「理論に頼らず」読書するにしても、私たちはまっさらな解釈する主体ではありえない。

この方法にのっとるなら、私たちの研究対象はテクストそのものではなく、解釈のほうである。テクストと対決し、そのテクストを我がものにしようとするときにおこなわれる解釈、それが私たちの研究対象になる。解釈というものを、ここでは、本質的にアレゴリカルな行為、つまり、所与のテクストを特定のマスター・コードを参照して書き換える行為と捉えることにしよう。マスター・コードがいかなるものかをつきとめさえすれば、さまざまな解釈コードの評価に移れる。いいかえるなら、これによって、現在、アメリカの文学ならびに文化研究で広く通用している「方法」やアプローチが評価できるということだ。評価のとき比較対照のため対置されるのは、弁証法的、全体的な理解、まさにマルクス主義が理想とする了解法であり、 この対置を利用して、マルクス主義以外の解釈コードの構造的限界があばかれる。また、このとき、非マルクス主義的な解釈コードが研究対象を捏造するときの「範囲を限定するような」やり口、ならびに、おのが解釈だけ完璧で自己充足的なものとみるイリュージョンを可能にする「封じこめの戦略」に対しても、とりわけ多くの光があてられるだろう。(p. 10)

「ハンパな理論ならK.O. マルクス主義批評こそ最強」ってことですね。同意できるかはさておき、ワクワクする。

マルクス主義批評はほかの理論にとってかわるのではなく、包み込み、部分的有効性を割り振る。齟齬を生じない形でどんどん吸収して強くなる。いわゆる弁証法

『政治的無意識』は何の本ではないか

・政治文化は何をなすべきか、政治的・革命的美学を提出しない。

その理由として、

  1. ソ連において芸術活動に制限を加えたジダーノフ主義という悪しき前例
  2. 形式や言語におけるモダニズムや「革命」にマルクス主義が眩惑されたこと
  3. 新しい「世界システム」(ウォーラーステイン?)の誕生に古いマルクス主義の文化的パラダイムが対応できていないこと

を挙げる。しかし、本書の結論部にはひとつの空席が拵えており、「リアリズムとモダニズムのかなたにある、いまだ実現されざる、集団的で、脱中心化された未来の文化生産のために用意されている」という(アチー!)。

・伝統的な美学哲学の問題も扱わない。

(前略)そのような(消費社会やスペクタクル社会と呼ばれる、構造的特殊性をもった)社会で、つまりメッセージで飽和し、ありとあらゆる種類の「美的」体験が氾濫している社会で、古臭い美学哲学の諸問題を云々してもはじまらないのであって、むしろ、その種の問題はラディカルに歴史化して捉えなおしてこそ意義がある。そのあかつきには、当然予想されることだが、いにしえの美学哲学も実はすでに原型をとどめぬほど変質していたことが判明するだろう。(p.12 括弧内引用者)

文学史じゃない。

ジェイムソンによれば、文学史とは、「いま危機に瀕しているディスクール形式ないしジャンルのパラダイム的な仕事」である。「危機に瀕している」理由は、ヨーロッパ中心主義批判や異性愛男性中心主義批判による既存の史観や正典の問い直しがなされているからでいいのかな。たとえばこの本はサイードオリエンタリズム』(1978)の3年後に刊行されている。

そもそも伝統的な文学史とは、再現=表象的物語の下位集合であり、小説史において基本的典型としての信用をおとしはじめた「リアリズム」物語の一種なのだ。(p.13)

再現=表象ってよく出てくるけどわかってないので、誰か教えてください(メシおごります)。

マルクスブリュメール18日』に出てくるんだっけ?

ジェイムソンによれば、文学史について、アルチュセールの「対象と目されているものについて、完璧な真に迫った模像を丹念にこしらえるのではなく、その対象の『概念』の『生産』をこころがけること」という歴史記述一般に関してのテーゼを当てはめるべきだという。これはアウエルバッハ『ミメーシス』が批評実践の部分において試みたことだ。

↑なんとなく言ってることはわかるけど、わからない。『ミメーシス』春休み中に読むモチベがアガる。

『政治的無意識』は何の影響を受けて書かれたか

ノースロップ・フライの基本的貢献、グレマスのフォルマリズムと記号論を統合するコード化作業、キリスト教解釈学の遺産、フロイトの夢の論理の研究、レヴィ=ストロースの「未開の」物語行為と「野生の思考」の研究、そしてマルクス主義者ジョルジュ・ルカーチの業績。

・これらの仕事が一つにまとめられ、評価される。評価基準は、批評と解釈の問題、すなわち、イデオロギー、無意識と欲望、再現=表象、歴史、文化生産といった問題機制を、《物語》というすべてを支えるプロセスを中心に構造化しなおすことである。

ここで観念論哲学の速記法を使わせてもらうなら、私は《物語》を人間精神の中心的機能、あるいは《審級》と捉えている。このパースペクティヴは、伝統的な弁証法のコードに置き換えて定式化しなおしてもいい。 Darstellung の研究というように。この翻訳不可能なドイツ語が示す領域において、いまさかんに論議されている《再現=表象》 (representation) の諸問題が、 これとは対照的な 《現前化》 (presentation) の諸問題、つまり時間のなかを動く言語とエクリチュールの本質的に物語的・修辞的な運動の諸問題と、実りあるかたちで交錯するのである。(pp. 14-15)

↑ガーチでわからん。何? 再現=表象もそうだけど、現前化もわからん。一般的には「対象をそこに現に存在するものとする働き」のことで、ハイデガー形而上学の歴史が存在の意味が現前性に規定されているとするギリシア的存在理解に支配されてきたことを批判しているらしいが、ここではエクリチュールとか言ってるからデリダ『グラマトロジーについて』を読めってことだよな。

なぜ本書は解釈の有効性の問題を論じないのか

もし文献学的正確さという実証的概念だけが、唯一の選択肢となるのなら、私はむしろ、強力な誤読による脆弱な誤読を祝福する最近の挑発的な理論に、よろこんでくみしよう。中国の諺にいわく、斧を切り刻むなら、もう一本、斧を用意すべし。これを私たちの文脈に置き換えるなら、いまひとつの、より強力な解釈だけが、すでに居座っている解釈をくつがえし、実質的に、論破できるということになろうか。(p.15)

ジェイムソンは脱構築批評に好意的ってことか。

理論と文学史の対立を乗り越える第三の立場、それがマルクス主義批評

この二つの潮流――つまり理論と文学史は実にしばしば、西洋のアカデミックな思考のなかでは、絶対に相容れぬと思われてきたため、両者を乗り越える第三の立場が存在することを、最後に読者に思い出してもらっても、あながちむだではあるまい。その第三の立場とは、弁証法というかたちで理論の第一義性を肯定しつつ、同時にまた、理論とは<歴史>そのものの第一義性の認識にほかならぬことを知っ ている立場、すなわち、マルクス主義である。(p. 16)

最近「批評って理論抜きでもダメだし歴史抜きでもダメなんだよな〜」と思っていたので、このアジはマジでガチアツいっすね。これから読むのが楽しみ。

 

8ページ読みながらこれ書くのに3時間かかった。今日はこれでおしまい。