2年前に文庫本で読んだのだがその後失くしてしまい、地元の書店に置いてあった単行本を渋々購入して再読したのだが、それでも出費に見合うだけの内容はあったように思う。
本作は第38回吉川英治文学新人賞を受賞しているので、おそらくエンタメ作品という扱いなのだろうけれど、描かれている題材はかなりハードだ。
全6作品からなる連作短編の形式で、それぞれ「百匹目の猿」現象、エスパー、脳外化手術「オーギトミー」、代替医療、カルト化するAA*1といったオカルトをテーマに据えている。
シンクロニシティめいた現象によって日本中の猿が火を使うようになる『百匹目の火神』。
〈スプーン曲げ〉の超能力が人を狂わせていく表題作、『彼女がエスパーだったころ』。
暴力的だったバンドマンが脳外科手術によって心優しき天使となる『ムイシュキン*2の脳髄』。
「ありがとう」の念が込められた水で汚染された原発を浄化しようとする『水神計画』。
語り手の〈わたし〉と〈スプーン曲げ〉の女性が再会し、セックスカルトに立ち向かう最終作『沸点』。
それらももちろん傑作揃いだったのだが、特に自分に印象深かったのは〈終末医療〉という一際重いテーマを描いた四作目の短編『薄ければ薄いほど』だった。
『薄ければ薄いほど』が物語全体を通じて読者に投げかけているのは、この記事のタイトルにもした〈疑似科学は本当に悪なのか?〉という問いだ。
水素水やマイナスイオンなどのいわゆる疑似科学がメディアや人々の会話の俎上に上げられる時、きまって疑似科学は批判の対象になっている。
その批判の根拠は「科学的効果が認められていないから」、つまり正しくないからだ。
しかし、正しい正しくないということは、必ずしも良いか悪いかの価値判断に直結しないのではないだろうか?
物語の舞台となる〈白樺荘〉は、現代医学では治療できない病を抱えた末期の患者たちが集団生活を営むホスピスであり、そこでは〈量子結晶水〉なる薬が患者たちに投与されていた。
〈量子結晶水〉はただの薄まった生理食塩水であり、プラシーボ以外の科学的効果はない。
まさしく疑似科学そのものだ。
それを患者たちに〈病に効く〉と言って服用させる行為は欺瞞と言える。
しかし、その嘘を信じることで死を目前とした患者たちの精神的苦痛が少しでも軽減されるのならば──別に欺瞞でもいいんじゃないだろうか。
この作品を読んでいる最中、小説に月々数万を注ぎ込んでいる自分と、疑似科学の「悪徳」ビジネスに騙されて効果の無い商品を購入する人々、同じウソにお金を払っているということには変わらないんじゃないか?──そんな風にまで考えてしまった。
『薄ければ薄いほど』のラストシーンは、とても強いメッセージ性に満ちている。
それは過度に〝正しさ〟を要求し、無思慮に〝正しくない〟ことをバッシングする現代社会の風潮に対する批判である。
プラセボでもなんでも効果があればいいと言う者がいた。野呂の行為は詐欺にほかならないと指摘する者もいた。〝患者は希望を欲するものだと思いますし、それはやむを得ないと思うのですが、科学的真実が覆い隠されるようなことになるなら、残念なことと言うよりありません〟〝誰がどんな治療を受けようがかまいませんが、この一件が自殺の肯定につながらないか気がかりです〟〝個々の信仰は自由ですが、親が子供に医療を受けさせないような事態は避けなければなりません〟……誰もが、頼まれもしないのにそれらしい正論を発信していた。
まるで、何か言わなければ自分が死にでもするかのように。
余さず伝えてほしいというのが、かずはの意志であった。
それでやむなく、わたしはこうした人々の声を彼女に読んで聞かせた。短い沈黙ののち、かずはは震える指先をキーボードに這わせ──そしてその一言をタイプしたのだった。
──〝薄っぺらいんだよ〟
『彼女がエスパーだったころ』は間違いなく自分の宗教的なものに対する考え方を変えた作品の一つで、この小説を読んで以来、「宗教」という言葉をネガティブな印象で安易に使用することはなるべく控えるようにしている。
自分はほとんどの日本人と同じように根っからの無神論者だけれども、宗教が天災や病気などのどうにもならない出来事に直面した人々の救いとなっていることは間違いないように思われるからだ。