これもお気に入りの日本現代文学。
自分は小説を何度も読み返すタイプでは全然ないのだが、『淵の王』は4、5回は読み直している。
舞城王太郎は作品ごとに新たな文体を模索するタイプの作家なので(個人的にはその頂点にいるのが谷崎潤一郎と大江健三郎だと思う)、語りを追っているだけで楽しい。
舞城王太郎について語れと言われれば、優に5時間は語り尽くす自信がある。
超ざっくり言えば、ラノベ読み大好き西尾維新(自分は愛憎入り混じっているタイプで、語ろうとすれば長くなるので割愛)や佐藤友哉と共に今は亡き文芸誌『ファウスト』で活躍し、ゼロ年代ブームを創り上げた作家だ。
またライトノベル作家→純文学作家のルートを最初に開拓した人だとも思っていて(冲方丁や桜庭一樹よりも早い)、2003年に『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞を受賞している。
そんな舞城の『淵の王』を紹介する。
以下あらすじ。
中島さおりは〝影〟に憑依された幼児に襲いかかられる。堀江香歩のマンガには、描いた覚えのない黒髪の女が現れる。中村悟堂が移り住んだ西暁町の家の屋根裏部屋には、闇の穴が黒々と開いている。
「俺は君を食べるし、今も食べてるよ」。
真っ黒坊主——それはあなたの眼前にもきっと現れる。日常を浸食する魔、そして狂気。作家・舞城王太郎の集大成、恐ろしくて、切ない、傑作ホラー長編。
(裏表紙から抜粋)
この小説の凄いところは、まずかなり珍しい二人称の文体で書かれていることだ。
それぞれの章の主人公である中島さおり、堀江香歩、中村悟堂ではなく、彼女らに取り憑いている守護霊的存在の視点から物語は語られている。
守護霊はこの小説において語りを許された超越的存在だが(三人称を「神の視点」と呼ぶように)、それ故に主人公たちを見守り続けることしかできず、物語に介入できない。
そのような存在にもかかわらず、「根源的な悪」である怪異と対峙する主人公たちをなんとか助けたいと願う——そこもこの小説の面白さの一因となっている。
そして、なんといっても舞城王太郎作品の最大の魅力は、どんなに絶望的な状況でも失われない世界に対する圧倒的な肯定だ。
例えば『淵の王』一章の終わりで守護霊が闇に食われてしまうシーン。
さようなら。
私の存在しない頭を私に近付いてきたその闇がかじる。
私の存在しない身体を、腕も足も胴体も、その闇がガリガリと噛み砕き、飲み込んでいく。
私は存在しない生命を失い、存在しない存在を失い、その謎の闇の中で無くなる。
でも完全に失われる前に、私が私としてあった証みたいにして、一つ感情が残る。
悔しい。
あなたとここで別れるのが悔しい。
あなたを含んでいるという理由で、私はこの世界が好きだった。
あなたのことが好きだったのだ。
それを、そもそも無理だったとしても、伝えることができずにこうやって無くなっていくのが悔しい。
だってどんな愛情だって、伝えられないこと以上の不幸ってないでしょう?
人は(人ではなく厳密には守護霊なのだが)、自らの存在が今まさに消えていくというその時に、こんなにも純粋に世界への愛を表明することができるだろうか?
舞城王太郎のようなアニメカルチャーを準拠枠(文学用語で、簡単に言えば小説を書く材料)としているメフィスト系の作家は、世代的にもれなく「エヴァ」の洗礼を経てきている。
「人間は分かり合えない」ということを強烈に突きつけてくるエヴァの絶望(それをもたらしたのは「エヴァ」ブームの土壌を形成した地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災などの悲惨な出来事でもある)をDNAレベルで刻み込まれたであろう世代が、それを乗り越えて世界への愛を書き続けること。
これは本当にすごいことだ。
舞城王太郎愛があふれ過ぎてかなり暴走気味になってしまったが、『淵の王』はとても面白いので是非読んでほしい。